神々と歩く強運への道
著者:棚橋美元
第1章------運を司る存在
「貧」「争」「病」が人間の悩み
 まず人間の悩みは大別すると、「貧」「争」「病」の三つであるといえます。
 説明の必要はないでしょうが、第一の「貧」とは貧しいこと、第二の「争」とは争うこと、最後の「病」とは病むことです。
 貧とは即ちお金のことで、多くの人間は「もっとお金があれば、楽な暮らしができるのに」とか、「お金があれば、あれもこれも買えるのに」などと、日々不平不満を漏らしています。
 あるいは商売をしている人であれば、事業不振ですね。「お客が入らない」あるいは「資金繰りが苦しい」「不渡を出しそうだ」などの切迫した事情が生まれることもあるでしょうし、若い人であれば「お金がないから結婚できない「生活が苦しいから子供をつくることができない」などの事情もあるでしょう。
 なにしろ昔から、お金は“いのち”のつぎに大切なものといわれてきました。
 人間は生まれてから死ぬまで、お金の問題と付き合っていかなければなりません。お金持ちはごく少数で、大部分の人間はなんらかの理由でお金に悩まされています。外から見ていてリッチな生活を送っている人でも、その内情は火の車であったり、必死にやり繰りしているということも少なくありません。
 そうであれば、一見リッチに見える人でも、身近に「貧」を感じていることになるわけです。
 つぎに「争」を考えてみましょう。「争」の大きなものは戦争で、多数の犠牲者を出します。小さなものでは喧嘩やいさかい、いがみ合いなどになります。職場でのセクハラやパワーハラスメント、ストーカー行為も「争」の一つに数えられます。
 つまりお互いの気持ちが通わずに、相手を傷つけ、自身も傷つけられる事象が「争」といえるのです。
 家庭内でも夫婦や親子、兄弟同士の争いはありますし、ご近所や地域、会社でもそうした争いは、日常的なものになっているのではないでしょうか。殴り合い、つかみ合いの喧嘩にまで発展しなくとも、「なんとなくウマが合わない」「顔を見るだけでムカツク」などの言葉をよく耳にしたりもします。
 この「争」は、生活に大きなストレスとなってのしかかってきます。つまりは人間関係の複雑さが、大きな悩みとなって貼り付いてしまうわけです。
 最後の「病」はいうまでもなく病気や怪我のことです。
 重い病気に罹って入院した、あるいは手術をした、寝たきりになったなどは想像するだけで気が滅入ってしまいます。当人はもちろん、家族が病に冒されてしまうと、家庭内はすっかり暗くなってしまうことでしょう。
 それが小さなお子さんであれば、将来のことを悲観し、他人のお子さんを羨み、歯噛みすることになります。働き盛りの大人が重い病気に罹ってしまえば働くこともできず、家計は傾いてしまうでしょう。
 昔から「無病息災」というように、病気をせずに健康に生きることがどれだけ有り難いことか、私たちは身にしみてわかっています。
 ところが、ある日突然に病気になってしまう、大怪我をしてしまう、さらには後遺症に苦しめられてその後の人生を棒に振ってしまうなどは、想像するだけで恐ろしくなってしまいます。
 このように、お金に不自由せず、人と争わず、健康で生きることが悩みのない人生といえるのですが、こうしたものを「運」に当てはめると、それぞれが「金運」「対人運」「健康運」ということになるのです。
 では、この三つが揃っていると、人間は幸せでしょうか。
 その答えは「否」です。お金があれば、もっとお金がほしい。人間関係がうまくいっていれば、高い地位がほしい。他人から評価されたい。健康であれば、美しくなりたいなどと、人間の欲望は際限なく膨らんでいきます。
 それが人間の本性であり、そのことによって向上心が生まれるわけですが、この「幸せ」と「不幸」、それに「強運」と「不運」は、似ているようで、本質的には全く違うことと考えています。
とても偶然の積み重ねといえない不思議な事件
 まず、「幸・不幸」と「運・不運」とは、その立脚点が完全に異なっています。
「幸・不幸」とは当人の主観的判断によるものです。他人から見て、「あの家は貧しくて可哀相だな」とか、「病弱の家族を持って苦労しているな」と思うのは、その人の主観によるものといえるでしょう。
 しかし、当の本人にとってみれば、それを苦に思わず、毎日が張りのあるものならば、「不幸」とは感じていないことも多々あるのです。
 ところが「運・不運」とは客観的なもので、どれだけ努力しても報われない。あるいは災厄ばかりが降りかかってくる。さらには、達成の一歩手前で挫折してしまうなどの現象は、やはり不運としかいいようがないのです。
 事故などは典型的なもので、「予定通りに行動していたら、あの飛行機に乗っていた」「本当は乗るはずではなかった列車に、どういうわけか乗ってしまった」などと、偶然では片付けられない“何か”の影響で、事故に遭遇したり、回避したりしています。
 また、勝負事でも実力や実績があり、どう転んでも優勝するだろうと評価されている人間が、簡単に初戦で敗退したりもします。「運も実力のうち」という言葉がありますが、こうした事例を耳にするたびに、人間には「運・不運」が大きく作用していることを実感せざるを得ません。
 つまり、「幸・不幸」とは、その状況を当人がどう思っているかであり、「運・不運」とは厳然として発生する事象のことと言い換えることができます。
 それよりも、現在、幸運の道を歩いていることに気づいていない人間のほうが、多いように私には思われるのです。そこそこお金があり、周りとの人間関係もさほどこじれていない。すこぶる健康とはいえないが、体調は悪くない。世の中の大部分はこうした人々でしょう。
 そうしたことを当たり前と思って、「もっとお金がほしい」「他人から羨まれるような地位や名誉がほしい」「もっと健康になりたい」と漠然と考えている人が、多いように思われてなりません。
 今、こうしていることが幸運なのに、それに気づかず傲慢な態度を取っているといえるほどです。
 たとえて言えば、人生とは目隠しをしながら歩いているようなものでしょう。その先には、その後ろにも大きな落とし穴が口を開けて待っています。人間はその落とし穴に気づかずに、本人は真っすぐ前だけを見て歩いていると思っているのです。
 しかし、人間が落とし穴に落ちない、あるいは落ちなかったのは、運を司る何かが導いてくれたということにほかなりません。その時々で気づかなくとも、後になって「あの時は危なかったな」とか、「間一髪で助かったよ」と思うことがあります。
 それが序章で述べた貿易センタービルでの自爆テロ事件であり、広島での道路事故であり、日航機の墜落事故でもあるのですが、こうした理屈では証明されない“何か”の力が働いて、死地から帰還することができた方々の声をよく耳にすることがあります。
 そこでもう一つ、大きな事故を免れた愛知県の大学生の話を紹介することにしましょう。
 今から二十年ほども前のことですが、愛知県の某大学でスキー教室が開催されました。このスキー教室は毎年実施されており、学生に人気の高い催しだったそうです。夜に愛知県の大学前で集合し、チャーターバスを利用して翌朝早くに長野県のスキー場に到着。朝早くからスキーが楽しめるというスケジュールになっていました。
 ところが一台のバスが犀川沿いの国道一九号線を走っている時に、カーブを曲がりそこねて川に転落してしまったのです。
 そのバスでは運転手をはじめ、乗っていた学生のほぼ半数が死亡するという大惨事になってしまいました。
 実はこの時、バスに乗れなかった学生が一人いたのです。
 これも後追いの報道でしたが、その学生は家を出る直前に、猛烈な悪寒と発熱によって動けなくなったといいます。そこでやむなく参加をあきらめたのですが、バスが出発した頃になって急に熱が下がり、状態が良くなったというのです。
 これなら参加できるということで、急いで名古屋駅に向かい、夜行列車でスキー場に向かったのですが、スキー場に着いてからバスの事故を知ったということです。何か不思議な力が働いたとしか思えない事例といえるでしょう。
 もっと不思議な話もあります。
 阪神淡路大震災では六千余名の方々が犠牲になり、ほんのわずかの差が生死を分けた例がたくさん報道されました。
 その極めつきといえるのが、トラックを運転していた女性ドライバーの例でしょう。当日もその女性ドライバーは、いつもどおりに家を出て東に向かって走っていたそうです。その助手席にはこれもまた、いつもどおりに赤ちゃんを乗せていました。
 早朝ということもあって高速道路は車が少なく、渋滞に巻き込まれることなくトラックは順調に走行していたということですが、どうしたことか高速道路をいつもより手前の出口で降りてしまったというのです。
 そして、下の道路を走っていると、それまで眠っていた赤ちゃんが急に火がついたように泣き出したそうです。
 いくらあやしても、全然泣きやまないため、トラックを左に寄せてオムツを替えようとしたところ、その瞬間に大地震が発生し、高速道路が倒壊してきました。その女性はラジオの番組で、「潰れた車から、生存者も死者もたくさん引っ張り出しました」と語っていましたが、これを偶然というにはあまりにも重なり過ぎています。
 まず、いつもよりずっと手前で高速道路を降りたことです。降りていなければ、トラックは高速道路上を走行していたわけで、そうなれば当然のことながらトラックは激しく横転していたか、あるいは高速道路の高架橋から転落していたことでしょう。
 また赤ちゃんが急に泣き出して、泣きやまなかったことでトラックを停車させたわけですが、もし赤ちゃんが泣きやんでいたら、倒壊した高速道路の下敷きになっていたということです。
 このように、少し注意を払っていれば、私たちの身の回りには到底偶然とはいえない不思議な体験が非常に多いことがわかります。
 私が直接話をしたわけではないので、真実のほどはわかりませんが、こうした強運の人々は、祖霊の中に強力な力を持つ人がいて、その加護によって身を守られていることが少なくないのです。
不運ばかりが続くのには原因がある
 こうした話とは別に、何をやってもうまくいかない人もいます。
 先のプロ野球選手のように、ある程度までは行くのですが結局は大成しない、あるいはいざという時に頓挫してしまう人は、それこそ数えきれないほどいます。
 そうした人は「自分には運がない」と自分自身の運命を呪ったりしますが、果たしてそうでしょうか。
 運にはさまざまな種類があります。
 少し考えただけでも仕事運や金運、健康運、家庭運、恋愛運、勝負運などが浮かんできます。さらに社会人であれば職場の上司運や部下運もあるでしょう。
 あなたは、どの運に恵まれたいと考えていますか?
 その答えは「できれば、その全部がほしい」となるでしょう。あれもこれもと欲張りかも知れませんが、それが人間の本質であり、決して悪いことではありません。つまり、幸運を引き寄せたいという願望が、人間を駆り立てる原動力であるからです。
 ところが実際の人生は思い通りにならない、不運ばかりが重なるという人は、その原因を突き止めることが必要になってきます。
 こうした人たちは、先に述べた落とし穴に自ら進んでいく人生を歩んでいるのか、それとも悪運を司る何ものかに誘導されていると考えなければなりません。「別に悪いことをしているわけではない」「誰かに恨まれるような覚えもない」という人で、不運ばかりが続くのなら、そうした悪しき存在を考える必要があるでしょう。
 さて、こうした悪運から逃れる、あるいは幸運をつかむために、さまざまなテクニックがあります。
 それを解説しているのが、いわゆる開運本で、本屋さんの棚にはその願いに応じて各種の開運本が並べられています。風水や気学、姓名学などなど、まさに世の中は開運ブームだといえるでしょう。
 それらは長年の研究の成果ですから、それぞれに効果はあることと思われます。もちろん、その中には、ほんの少ししか効果がなくても、ひどく大袈裟に書いているものもあります。
 ただ、いえることは、そうした本にも書かれているように、開運にはある種の法則があるということです。「やればいいこと」と「やったらいけないこと」が明確に指し示してあって、「こうすれば運気を呼び込むことができる」「こんなことをすると運気が逃げてしまう」と解説しているのです。
 こうしたことが、いわゆるテクニックで、名前の画数を気にして、方位方角に留意して、吉日を選ぶ。開運本の多くは、こうした結論に導かれます。
 なぜ、そういうことが運に影響するのか。
 それは、そのテクニックを“用意”した何ものかが、それを用いる人間に、何かの期待をしていることにほかなりません。
 この世の中には目に見える法律やルール、マナーなど、誰もが知り、それを守っている “約束事”があります。それを守っているがゆえに、社会はスムーズに回転しているわけですが、目に見えない“約束事”もまた存在しているのです。
 開運とはそうした“約束事”を理解し実行することといえるでしょう。
 科学万能の現代ですが、私たちはこれまで不思議な現象を目にし、耳にしてきました。そこに現代科学では解明できない、“何か”の力を感じることができるはずです。
 運を司る存在は実在するのか。
 という問い掛けに対して、私たちは明確に「存在する」と回答しています。そして、そうした存在を“神”と呼んでいるのです。
 生きている人間にサインを送り、善き道へと誘導してくれるのが神なのです。逆に悪しき方向へと引き摺り込むのが悪霊や低級霊で、神を味方にして悪霊や低級霊を退けることができれば、おのずと運は拓けてくるのです。
サムシング・グレートとは何か
 いきなり“神”が出てきて、驚かれた方もいらっしゃるでしょう。
 それでは、神とはどういうものなのかについて考えてみることにします。ヒトゲノム、つまり人間の遺伝子情報に関する研究が急速に進んでいますが、筑波大学の村上和雄名誉教授はこの分野での日本の第一人者として知られています。
 氏は『生命の暗号』『人生の暗号』などの著書で、生命科学の最先端情報を一般人にもわかりやすく解説してくれています。
 それによると、遺伝子というミクロの存在の中に、三十億もの情報が詰まっていて、しかもその情報は、二重螺旋構造に並ぶ四種の塩基の組み合わせから成るといいます。氏はその神秘さに注目したと語っておられます。 「このような信じられないシステムを誰がつくったのか。もちろん人間ではない」  さらに、氏は続けます。 「自分は神の存在を信じているが、神などというと学生がそっぽを向く。そこで、このすごいシステムは、“サムシング・グレート(何か偉大な存在)”がつくったというと、みな納得する」というような意味のことをその著書の中で書いておられるのです。
 氏の言うサムシング・グレートとは創造主、普通に言えば神(または根元の神)ということでしょう。最先端の科学の研究者が、このように神の存在を認めているわけです。
「困った時の神頼み」では限界がある
 さて、運を司るのが神であると前段で述べました。
 では神は一柱かといえば、神道の考えでは複数であるというのが答えになります。ご存じのように日本には八百万の神がいます。運一つをとっても仕事運や金運、健康運、家庭運、恋愛運、勝負運などがあり、それぞれに運を受け持つ神がいるというのが神道の考え方なのです。
 日本各地のさまざまな神社を調べてみると、面白いことがわかります。
 有名なのが出雲大社に祀られている大國主之命で、言わずと知れた縁結びの神様です。私たち平和教でも大國主之命をお祀りしていますが、縁結びの神様としてではなく、国土開発や農産事業、稼業繁栄の神様としてお祀りしています。
 そして湯島天神では学業の神様である菅原道真公(天神様)が祀られていますが、普段、神道に見向きもしない方々が願をかける、つまり神様にお願いする時には、必ずそれを司る神様にお願いをしているわけです。
 さきほど、開運のテクニックについて話をしましたが、そうした神社でもお守りや護符、絵馬などの“テクニック”を用いて、運気を拓こうとしているといえます。
 繰り返しますが、開運のためのテクニックは必要です。
 しかし、テクニックの活用だけで運気を司る存在のことをまったく無視していれば、一時的に良い状態になっても、それを永続的にすることはできません。つまり、好調を持続させることは難しいのです。
 ここに一つの言葉があります。「困った時の神頼み」がそれですが、いかにも日本人の気質を表しているように思われます。先の出雲大社や湯島天神のように、結婚の適齢期になれば、あるいは入試前になれば、その神様を拝んで願を掛ける。そして、その願いが叶うとお礼参りをしてお終いにしてしまう。
 果たして、それでいいのでしょうか。
 もう一度、念を押しますが「なぜ、開運のテクニックが存在するのか」を考えてみましょう。
 テクニックがあるということは、それを用意した存在に、何かの目的、あるいは用いる者に対しての期待があるということです。開運のテクニックがある以上、そのテクニックを使って開運の実を上げることは大事なのですが、「ここに良い方法があるから、使ってしまえ」では、それを用意した存在の期待に応えることにはなりません。
 それだけでは、いつかは行き詰まってしまいます。運を司る存在には、私たちに対する何かの期待があり、それに目を向ける必要があるのです。
すべてのいのちは、神につながっている
 それでは、「どのようにすれば運気を呼び込むことができるか」ですが、私たちは運を司る神と縁を結ぶことを最上のものと考えています。
 本書の読者の中には、「そんな。神様なんているわけがない。もし、いたとしても、自分のことなんか、見向きもしてくれないだろう」と思っておられる方もいらっしゃるでしょう。
 ところが、人間誰しも神の子であるとしたら、どう思われるでしょうか。
 親は子の健康を案じ、行く末を気にかけます。身を粉にしても護ってやりたい、真っすぐに成長してほしいと常に見守っています。神があなたのことを子と思い、親身になって味方になってくれれば、これほど力強いことはありません。
 神道では、人間だけでなく、魚や鳥、獣、草木の生きとし生けるものはすべて神から生まれ、神の霊につながっていると説いています。生き物だけでなく、海や川、山や岩にも同じ神の〈いのち〉が宿っているのです。
 つまり、一人ひとりの人間やあらゆる生物や植物、無機物であっても、すべてが神霊という巨大な生命の一部であるという教えです。
 ただし、人間とほかの生物との間には、非常に大きな差があります。たとえば遺伝子レベルで考えると人間に非常に近いとされる類人猿でも、いくらたくさん集まったとしても、優れた芸術や科学、宗教が産み出されることはありません。このような創造は、人間の属性といってよいでしょう。
 確かに人間以外の万物に、神性を認めることはできますが、人間とは大差があります。つまり、人間には最高の神性、霊性が授かっているのです。このように考えると、「人間は最高の神の子」あるいは「人間だけが神の愛子」といってよいでしょう。
 キリスト教では、イエスだけが「神の一人子」といっていますが、神道の基本的な考え方を推し進めていくと、「人間は誰しも神の子」ということになります。
 しかし、普通は実生活において神の存在を実感することはあまりないでしょう。
 とくに、科学万能の現代では「神は存在する」と言えば、色眼鏡で見られることもしばしばです。ましてや、「人間は誰しも神の子」と言ったら、変人扱いされかねません。
 そこで次章では神とはどういうものか、その神が私たちにどのような期待をし、どのように働きかけているのかを考えてみたいと思います。
体験談 (1) あわや転落死という状況から、九死に一生を得る
 愛知県 原田吉郎(総菜店経営)
 もともと宗教には興味がなくて、どちらかといえば避けていたように思います。
 というのも、昔住んでいた家の近くに大きな病院があり、ある宗教団体がそこから出てくる患者さんを強引に引き込んで入会させているのを随分見ていたんです。人の弱みにつけ込むなんて、なんて非常識で悪質なんだろうと宗教に対して不信感があったんですね。
 ところが、息子の素行のことで家内が平和教の先生のところに相談に行ったんです。家内はその先生と同級生だったんですが、話を聞いてみると、ほかの宗教のように押しつけがましいところがない。じゃあ、私も平和教の開運講座を受講してみるかという気になって、重い腰を上げたんですが、平和教は高潔で、教えが素晴らしいことがわかりました。
 こうして神縁を結ぶことになったんですが、その後で大きな事故に遭いまして、危うく命を落とすところだったんです。それが奇跡的に助かったというのは、神様のお陰としか考えられません。
 その日、仕事で車を運転していたんですが、豊橋から鳥羽を結ぶ伊良湖街道を走っていました。伊良湖街道、つまり国道二五九号線は語呂合わせで「ジゴク街道」と呼ばれています。単に語呂合わせだけじゃなくて、実際のところ事故が多発する道路として地元では知られているんです。
 豊橋郊外の交差点で赤信号になり、青信号待ちをしていました。ようやく信号が青に変わり、発進して交差点中央に差しかかった時、車の後部で「ドーン!」という大きな衝撃音が聞こえたんです。次の瞬間には車は跳ね飛ばされて、気がつくと私の車はガードレールに引っ掛かった状態で止まっていました。
 車から出ようとしたのですが、下を見ると、そこは田んぼになっていて、その高さが三〜四メートルほどもあります。ゾッとしましたね。
 助手席では配達の荷物が事故のショックで散らばっていて、グシャグシャになっている。ようやくそれを片付けて、助手席側のドアから車を降りることができました。ぶつけた相手を見ると、若い女の子なんですね。
 私も頭に血が上って「携帯電話でもかけていたんだろ。どこで信号を確認したんだ」と強く言うと、「いや、ついうっかりして見落としてしまった」と言います。
 相手の走ってきた方向を見ると、六百メートルほどの下り坂になっていました。たぶん、猛スピードで突っ込んできたんでしょう。たまったものじゃないですよ。
 私の車は前輪が壊れていて、ニッチもサッチもいかないしね。
 そこで警察を呼んだんですが、係官が言うには「あんた、よう助かったな」です。「そのまま落ちていたら、車はひっくり返って仰向けになり、まず助からなかっただろう。ここで止まって、運が良かった」と。
 それから現場検証が始まったんですが、それまで無傷だと思っていたのに、急に左膝が痛みだして、即、病院ということになってしまいました。
 係官が「これからのことを考えて、病院は通院に便利な自宅の近くがいいですよ」と言います。そこで、娘に迎えにきてもらって、町内の内科・外科の病院に行きました。
 そこでは、「たいしたことはない。二〜三日養生すれば治る」との診断でしたが、どうにも痛みが引かない。しょうがないので、その医師に頼んで整形外科の病院を紹介してもらったんです。
 そこに半年ほども通って膝は完治しました。私にとって幸いだったのは、その病院はどんなに痛んでも、一切薬も注射も使わずに、電気治療とマッサージだけで本人の治癒力を高めて治すという方針だったんですね。
 薬の副作用や後遺症の心配がないというのは、ありがたかったです。事故の件も、保険会社を通じてうまく示談にできました。
 事故のことや病院のことは、偶然ということで片付けることは簡単ですが、私の実感からすれば、ご神威というか、神様に助けられたというのが確実にありますね。
体験談 (2) 息子を傷害事件の大惨事から助けていただいた
 大阪府 山本玲瑛(占業)
 私は大阪ミナミで占い業を営んでいます。場所は難波の占いハウスというところなんですが、とにかく悩みを持った人が大勢いらっしゃるんですね。そうした人たちは、いろんな方を連れてこられるんです。
 それは、いわゆる霊なんですが、私はほかの人と比べて少々敏感なほうですから、そうした霊とかお化けちゃんが見えてしまうんです。
 占い師というのは「こんな風なことになっているから、こういう風にしたらいいんじゃないの」というように、「こうしたほうがあなたの未来が良くなるよ」とメッセージを伝える役割だと思っています。
 本人にもそのようにしてアドバイスを送るんですが、その憑いている方にも「光の国に行ってください」というように諭したりもしていました。
 今から思えば怖いもの知らずで無知だったわけですが、それが甘かったんですね。
 たいがいのお化けちゃんは一応、言うことを聞いてくれてどこかに行ってくれたと思っていました。ところが、どこかに一瞬だけ隠れていて、また戻ってきていたんですね。
 私としては「ああ、これで出来た。お化けちゃんはどこかに行った。これで大丈夫」と思っていたんですが、強い霊の場合だと私が家に連れて帰ってしまっていたんです。そうなると、主人の調子が悪くなったり、上の娘から「ママ、今日は誰を連れて帰ってきたの」「今日は男の人だね」と言われるんです。
 娘も敏感なほうですから、そのお化けちゃんが見えてしまうんですね。これではいけないなと悩んでいた時に、平和教を紹介されました。
 その人は、私がタロット占いを教えている生徒さんなんですが、神様とお話しができたり、普通の霊能者ができない霊障を治めていたんです。私としては「すごい、この人」と思っていたんですが、私が悩みを打ち明けると「断行力がいいんじゃない」と言います。「何、それ?」と私が聞くと、「いや、お化けが憑きにくくなるんだよね」と。
 興味を覚えて「それどういうこと? 教えて」とお願いしたら、平和教のことだったんですね。平和教の話をちらっと聞いた時、グウァーッと鳥肌が立ちまして、「これだな!」と思いました。
 早速、パンフレットを取り寄せて、神伝治病法の講座に参加しました。
 その帰りの新幹線で、私の前に座っておられる男性が「コンコン、コンコン」と激しい咳をなさっていました。始めは「風邪を引いてはるんやな」ぐらいの気持ちで、気にしないようにしていたんですが、あんまりひどいので、習ったばかりの神伝治病法を試してみようかと思いました。
 とにかく私は能天気で、その前日初めて神様と御縁をいただいたばかりです。それに祝詞とか、秘言とか全然覚えていなくて、「それなら超簡便法があったな」と思い出して、
「とにかく前のおじさんの咳を止めてくださるように」と神様にお願いすると、その咳がピタッと止まったんですよ。
 結局、私が京都駅で降りるまで、その方は咳をされませんでした。私は「ええーっ!」と思いまして、すごく気を良くしました。家に帰ってからも主人に「すごい! この神様はすごいよ」と、思いっきり主人に報告しました。
 それから数日後、それほど日にちが経っていない頃なんですが、下の息子が「焼肉を食べさせろ!」と叫び出したんですね。「ええ?」「焼肉食べたい!」の一点張りで、あんまりうるさいので、「もう、わかった。明日はパパもママもお仕事だから、お祖母ちゃんにお金を預けておくから焼肉屋さんに連れて行ってもらって、好きなだけ食べておいで」と言ったら、「わーい」と喜んで、その日は寝たんです。  普段、息子は学校から帰ってから暗くなる六時半ぐらいまで外で遊んでいるんです。次の日も、お友だちとある広場で遊んでいたんですが、「焼肉を食べに行くんだ」ということで、その日は五時には家に帰りました。
 それから五分か十分過ぎに、刃物を持った男の人がその広場に現れたそうなんです。その男の人は広場に残っている子供たちを追いかけ回して、「殺してやる!」と。子供たちは逃げ回って、誰も怪我をした子はいなかったんですが、うちの息子は結構どんくさいものですから、もしその広場に残っていれば、えらいことになっていたかも知れないとゾッとしました。
 まだ、その男の人は捕まっていないんですが、その話を聞いた時、「あっ! これは大御神様のお陰だ」と直感したんです。いつも教主がお話してくださる幸運と強運とがありますが、うちの息子はその日、強運に近かったのかも知れないと。
 私は娘を産んだ時に臨死体験というものをしまして、向こうに行った時に「牛肉を食べちゃダメ」と言われて戻ってきました。「じゃ、一生牛肉を食べるのを止めよう」というと、主人も「僕も食べないようにするよ」と。
 そんなものですから、家ではほとんど牛肉を食べません。育ち盛りの子供がいますので、ちょこちょこと焼肉やすき焼きを家で作ることはありますが、牛肉メインの料理はあまり家ですることはないんです。
 それが急に息子が「焼肉を食べたい!」でしょう。そのことによって、大怪我をしないで済んだわけですから、これは本当に大御神様のお陰に違いないと思っています。
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