神々と歩く強運への道
著者:棚橋美元
序章------運のいい人、悪い人
間一髪で死地から逃れることができた
 世の中には、幸運な人生を歩んでいる人もいれば、強運な人、悪運が強い人もいます。その一方で、不運な人生を歩んでいる人、何をしてもダメな人、ツキに見放された人もいます。
 現代社会は科学万能の時代ですから「運」などというと、「運や不運などは、迷信や思い込みに過ぎない。単なる偶然の産物だ」と白い目で見られることもしばしばです。
 ところが、そういいつつも星占いを気にしてみたり、姓名判断を信じていたり、方位方角や吉日を気にかけたりと、現代人も少なからず目に見えない「運を司る存在」を意識していることがわかります。
 確かに世の中には運気の強い人、逆に弱い人が存在しており、何か不思議な力が作用しているとしか思えない“事件”を目にしたり、耳にしたりすることがあるはずです。
 ここに、ひとつの“事件”を紹介することにしましょう。
 二〇〇一年九月十一日、米国ニューヨーク市の貿易センタービルにハイジャック機が突入しました。これはイスラム過激派による自爆テロということで、世界中を震撼させた痛ましい“事件”であり、犠牲になった方々やそのご家族にとっては、悔やみきれない最悪の 災害“事故”でもありました。
 このテロで犠牲になった数千人の方々には、心より哀悼の意を表する次第です。
 さて、世界的に有名なイアン・ソープという水泳選手がいます。彼はたまたまニューヨークに来ていて、その日もニューヨーク市内を散歩していたそうですが、空を見上げると貿易センタービルが目に入りました。
 彼は「あのビルの最上階から写真を撮ったら素敵だろうな」と思って、カメラを持って来るためにホテルに戻ったというのです。
 その直後に、あのテロが起こったわけですが、もし散歩に出る時にカメラを持参していれば、事件の時には最上階にいたはずだったと後に語っています。オリンピックには魔物が棲んでいるとよくいわれますが、そこでいくつもの金メダルを取った人間はさすがに強運の持ち主であったということなのでしょう。
 また、貿易センタービルのオフィスで働いていたある人は、前日に上司と喧嘩をして、初めて無断欠勤したために、事件に遭わなかったということです。
 日本でも、広島でアジア大会が開催される二年ほど前に大事故が発生しました。広島では大会に合わせて道路の高架工事をしていたのですが、コンクリート製の長大な構造物が落下し、その下の道路で信号待ちをしていた自動車の列を直撃したのです。
 合計十四台の自動車が潰され、自動車に乗っていた全員が即死となりました。
 この時、事故に遭った先頭の車の一台前がタクシーでした。タクシーの運転手は日頃はおとなしい運転で評判だったそうですが、事故の日、前を走る車が信号の手前で停車しそうになったそうです。
 信号を見ると青から黄色に変わったばかりで、カッとなったその運転手は前の車にクラクションを激しく鳴らして追い立てたというのです。そのお陰で自分の車も信号を通り抜けて、事故を免れたという不思議な話でした。
 この時、普段はおとなしい運転手がなぜカッとなったのか、なぜ前の車を追い立てるような無茶な運転をしたのか、偶然というにはあまりにも不思議な気がします。
乗れなかった人、乗り遅れた人
 貿易センタービルの自爆テロから、ほぼ二カ月後の十一月十二日に、同じニューヨーク市で航空機の墜落事故がありました。この時、大リーグのニューヨークヤンキースのソリアーノ選手が搭乗しようとしたのですが、満員のために乗ることができなかったと報道されています。
 さらに、日本航空のジャンボ機が御巣鷹山に墜落し、五百余名という多数の方々が犠牲になった事故がありました。繰り返しますが、こうした大惨事の時には私は心から哀悼の意を表しています。
 同時に私は人間の運命に深い関心を持っていますので、各種の週刊誌などで後追い記事をわりと丁寧に読んでいます。この時、麻雀に熱中していたために、この便に乗り遅れた人があると報道されました。
 これも、にわかには信じられない話です。飛行機に乗るとなると、普通は早めに飛行場に行き、搭乗手続きを待つものではないでしょうか。それが麻雀に熱中して、そうしたことも頭から離れてしまうとは驚きです。
 そのために事故を免れたわけですが、相当な強運の持ち主だといえます。逆に空席待ちの人がその飛行機に乗ったために、帰らぬ人となりました。これもまた偶然と片付けるには、あまりにも奇妙な出来事です。
 このように、大事故や大災害、あるいは大事件などが起こると、必ずといっていいほど、間一髪で危機を免れる運の強い人が出てきます。
 逆に犠牲になられた方々は、そのご家族の心情を思うとまことに不敬な言い方となってしまいますが、まるで魅入られたように事故や災害、事件に巻き込まれてしまっています。不運の極みというべき実態がここに存在しているわけです。
天候を味方にしたQちゃん
 Qちゃんという愛称で知られる女子マラソンの高橋尚子さんは、シドニーオリンピックで金メダルを獲得しました。その後、国民栄誉賞を受賞して、一躍国民的なヒロインになったことは記憶に新しいことです。
 シドニーオリンピックの一年ほど前に、当時の小出監督がある週刊誌のインタビューを受けました。
 インタビュアーが、「高橋さんのどこがいいのですか?」と質問すると、小出監督は開口一番、「名前がいいんだよ」と答えていたのです。
 素質を開花させた適切な指導と猛練習、明るい性格と適切なマスコミ対応、感謝の精神、それらのことに加えて大舞台での勝負強さなど、金メダルを獲得し、国民的ヒロインになる要素はたくさんあったでしょうが、「運の強さ」もまた関係しているように思われてなりません。
 確かに姓名学から見ると、高橋さんは「無から有を生むほどの強運」「健全な成長力」「健康運」「初志貫徹・万難突破の精神力」「上長の引き立て・周囲の援助」などの強い運勢を持っています。
 象徴的だったのは、シドニーオリンピックのマラソン競技当日が晴天で、無風状態のいわゆる絶好のマラソン日和だったことです。
 もちろん、どのような条件下でも実力が発揮できるように練習をするのでしょうが、彼女の性格から考えて気持ち良く走れる日になったのが、幸運の一つといえるでしょう。これは、高橋さんの著書である『風になった日』を読んで実感したことです。
 天候条件は、出場選手すべてにとって同じとはいえ、悪条件にあまり影響されない選手とひどく影響される選手がいます。このように、天候さえも味方にしてしまうことも強運であることの証明となるのです。
 とはいうものの、強運の人でも巡りの悪い年はあります。高橋さんがアテネオリンピックで代表に選考されなかったのも、この運気のバイオリズムが関わっています。こうした運気のバイオリズムは、いくら強運の人であっても避けることはできません。
 しかし、その後の高橋さんの活躍を見れば、やはりこの人は強運の持ち主であることが納得できるはずです。
有森選手もまた“強い姓名”の持ち主
 新聞や雑誌、テレビなど、マスコミではさまざまな名前が報道されます。
 そこで、大事故や大事件に遭遇した人は、なぜそういうものに巻き込まれたのかを、あるいは活躍している著名なスポーツ選手、政治家などの行く末をときどき姓名学の観点から判断しています。
 先の高橋さんの場合、炎天下のアジア大会でぶっちぎりの優勝をした時に、興味を覚えて姓名学の観点から調べてみました。
 家内が「これからも活躍するだろうか」と聞きましたので、私は「人間の運命に関わる他の要因のことはわからないので正確なことは言えないが、実力だけなら世界のトップクラスのレベルだと証明された。姓名の良さから考えると、普通の状態でスタートラインに立つことができれば、オリンピックでも金メダルを取れるだろう」と答えておきました。
 実際にシドニーオリンピックでは、そのとおりになったわけです。
 一方、同じ女子マラソン選手で、バルセロナオリンピックで活躍した有森裕子選手のエピソードも紹介しておきましょう。
 バルセロナオリンピックの時には、女子マラソン枠三人の最後の代表を誰にするのかが問題となっていました。有力選手が記者会見を開いて、「強い選手(つまり自分)を選んでほしい」と訴える一幕もあったほどです。
 それをテレビで観ていた家内が、どう思うのかとたずねたので、「名前から考えれば、有森さんが有力だ。候補全員を考えても、活躍するのは有森さんだろう」と、答えておきました。
 結果はご承知のとおりで、バルセロナオリンピックの女子マラソンで有森選手が銀メダルを獲得したのです。代表選考後に「間違って選ばれた」と評された有森選手でしたが、それほどまでに姓名が運命に与える影響は強いということです。
運に関わる要因はさまざま
 そのほか、プロ野球ファンであれば誰もが知っている某球団の某投手がいます。実力は球界有数と評価されていて、先発したゲームでは強打を誇る相手チームを完封したりしていました。ところが、残念なことに故障が多く、毎年、活躍が期待されながらもローテーション入りをすることなく、引退してしまいました。
 その名前は姓名学からみると、非常に悪いのです。
 人間の運命に関わる要因はさまざまなものがあり、姓名だけでなく方位や天地自然の流れ、地相や家相、果ては霊障によるものなど、多くの要素が複雑に絡みあっています。
 また、強運の姓名の持ち主であっても、運気の波長はありますし、衰運の時期を迎えることも人生の中では幾度もあるのです。これまで不運だった人が、改名するだけで強運の持ち主になれるかといえば、そうやすやすと運気は開けません。
 ただ、こうした「運」というものに向きあっていると、ある種の法則のようなものが見えてきます。つまり「何をすればいいのか」「何をしたらいけないのか」です。
 本書では神道の立場から、あるいは平和教の教主という経験をもとに「運」とは何かについて筆を進めていこうと思っています。「そんなものは迷信だ」あるいは「運なんてものは偶然の積み重ねに過ぎない」と一笑に付す方もいらっしゃるでしょう。
 しかし、改めて説明するまでもなく強運の人も、不運な人も確実に存在しています。「運」を知ることは自分自身を知ること、神の存在を実感することでもあります。
 目に見えない不思議な作用によって自分の人生は不運だと感じておられる方や、運気を向上させたいと願っている方、あるいは災いを遠ざけたいと心から願っておられる方に、本書がその一助となることを祈念しています。
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