私たち病気になりますと、自然に物事を消極的に考えるようになります。それまで金が欲しい、恋人が欲しい、地位が欲しい、欲しい、欲しいと欲望の塊だったわが心が、病院のベッドに横たわった途端に、
「金を余るほど持っても体が動かなくては何もできない……」
「恋人ができても、体が健康でなくては幸せにできない……」
「地位なんて健康に比べたら、何ほどのこともない……」
何も要らない……、となる。
病人は考えてみると仙人のようですな。何も欲しがらず、ただ健康と平安と家族の和を願うのですから。ただし、これは見かけ上のことですけれど。ひとたび元気を取り戻したら、また、また金、セックス(失礼)、地位、名誉……。欲しい。欲しいに戻ります。
病人は見かけ上の仙人と言いましたが、それは、諦めの境地から生まれた無欲だからです。ベッドの上では、毎日、それこそ寸刻も無駄にせず自分の病気のことばかり考えています。ネガティブの思考はどんどん煮詰まって、「欲しがりません、治るまでは」という心になるわけです。
本当の仙人は本当に欲しがらないのか……? そんなことはありません。まあ、仙人というと浮世離れの話になりますので、悟りを開いた高僧としましょうか。物欲を捨て去った高僧(こういう人もあまりおりませんよ現実には)、というのは実はとんでもない大きな欲を持っていらっしゃる。それは言葉は悪いけれども、人間をコントロールしたいという欲です。人々に我欲をほどほどに捨てさせ、社会を安寧に導きたいという想念ですね。これは、やはり直ぐに手に入れることができない、大きな欲ではありませんか。この欲を手に入れるために我欲を捨て修行をするのだと思いますよ。
少し話がそれました。病人の心境と高僧が欲を持たないのとでは、そういうわけで見かけは同じようでも、中身が違う。つまり、「自分が助かりたい」と「他人を助けたい」くらいの差があります。
凡人は誰でも自分が助かりたいと思いますが、病人は自分が助かりたい気持ちが強すぎて、ちょっとしたことでも気に病み、消極的な気持ちになる。ここがいけません。まず病になったら病を忘れることです。せっかく我欲が薄くなったのですから、他のためになりたいということを考えるのも一つの方法ではありませんか。
つまり、人間はどんなときにも欲が必要なんです。欲があるから生きようと努力もするし、人よりも長生きしようとします。
欲の良し悪しというのはその内容にあります。元気な人がエネルギーの溢れるまま抱く欲望ですと他人様に影響が出てくる。病人は我欲が薄くなっているからちょうどいい欲を持てる。「助かりたい」ではなくて「助けたい」という積極的な欲を持ちなはれ。
必ず貴方が助かる道筋が浮かびます。
知人からあるガン患者の方の話を聞きました。この患者さんも前にご紹介したすい臓ガンの人と同じで、やはり末期と診断されて即、入院ですよ。かりにこの方をHさんとしておきましょうか。
入院して約1カ月、検査のためにHさんは何も食べずに点滴で過ごしたそうですよ。すごいですね今の医療技術は、1カ月間、水も食物も何も口にせず点滴だけで生きていられるんですから。それで1カ月後に検査結果が出た。すい臓の奥にある動脈に腫瘍が浸潤しているので、手術では切れないという医師団の結論です。ずいぶん時間がかかるものですね。
だから直ぐ入院とか、直ぐ手術というのは、特殊なものを除いてそれほど「直ぐ」ということにこだわらなくてもいいということですね。医師から即、入院と言われても数週間ベッド空きを待つということもありますしね。それほど神経質にならないほうがよろしい。
Hさんは仕方がないので抗ガン剤投与ですね。カテーテルを入れていわゆる動注を数クールもやるということになったそうです。知人が見舞いに行ってHさんと話をしました。
病床に大学ノートが置いてあって、食事(抗ガン剤治療になってから食事をするようになった)のこと、投与する薬のこと、治療に関すること、それから日記風な記述がびっしり、毎日欠かさず書かれていました。几帳面な人ですね。
たまたまマーカーなどの数値の話になって、ずいぶんよくなったといって、そのノートに書かれた数値を見せてくれたというんですね。Hさんはそのまま点滴を引きずってトイレに行きました。
知人は数値だけ読んでノートをお返ししようとしたら、その上に書かれた部分に無意識に目が行ってしまった。申し訳なかったのですが。スッと知人の目が字を追ってしまいました。
そこには、奥様に対する感謝の気持ちが素直な気持ちで書かれていたそうです。チラッと拝見しただけで、知人はHさんの病床での気持ちが分かりました。そのとき知人は「この方は、きっといい結果が出る」と思ったというのです。
その話を聞いて、「その通り」と私も同感しました。ガンという激しく、頑固な病気は患者さん一人の精神力では勝ち目がありません。家族の愛、とくに配偶者の愛が必要なんです。
前著にも書きましたけれど、配偶者が親身になって看病してくれないと、治る病気も治らない。これは私の20年間の経験的統計から導き出された持論です。患者がこうして感謝の気持ちを大学ノートに綴るほど、Hさんの奥さまは献身的に看病したに違いありません。
それもそうですが、感謝の気持ちをこのように無防備に表現できるのも素晴らしいことではありませんか。Hさんの心の中は必ず癒しの波長が流れています。これが病気にいい影響を与えないわけがありません。これ本当のことですわ。
こういう人よくいますよ。自分で病気をつくって、自分で症状を重くする人ですね。こういうことってないですか。同じ病気でほぼ同じ症状を持っている人を知っていて、片方はまるで健康な人みたいに元気そうだし、片方は今にも死にそうに見えるってこと。
あるでしょう。これも人それぞれの考え方一つで違ってくるのですね。先日、面白い話を聞きましたよ。白内障の患者さんのことなんですけれど。
目がどうもチカチカして近視も進んできた。それで町の個人病院に行った。
「これは白内障で核化(つまり水晶体というレンズが老化で固くなっていく)による近視が進んだ状態です。手術で水晶体を取り替えれば、よく見えるようになりますよ」
と言われたんです。よくある話なんですけれど、この患者さん目を手術するということでふさぎ込んでしまった。大きな病院に紹介状を書いてもらって再検査をし、治療を受けてくださいと言われたんですが、それからは会う人ごとに「白内障で手術だ!」と宣伝して歩いた。
本人にとっては大変なことなんですよ。メールを打つときにも、必ずその話で終わるような始末。知り合いに触れ歩いて、手術が彼を知る人にとって既成の事実になってしまった。そして数日後に総合病院の眼科で検査を受けたら、
「まだ眼鏡で矯正できる段階だから、手術は勧められない」
と言われました。
手術はしないでよかったし、本人もほっとしたんでしょうけど、知人・友人に白内障の手術が明日にも行われるように話してしまった。自分の落ち込みようも知れてしまったので、恥ずかしくてしょうがない。まあ、それはそれで解決したからよかったですけれども、病気になると悪いように悪いように考える人がいます。この人などはまさにそうですね。
こういう人はときとして軽く済む病気でも、本当に医師が手こずるような患者になることがあります。
「山口さん、もう普通にしていて大丈夫ですよ。治ったも同然です」
「いや、先生。どうも胃の辺りがまだ重いんです。MRIもう一度やってください」
なんて患者を相手にすると、医師もため息をついてしまいます。実際、治ったことを医師が一生懸命説得しなくてはならない場合もあるようですよ。こういう患者は病を育てる人の典型ですよ。
実は白内障の話、後日談があります。たまたまその人の友人に電話して、
「いや、目がおかしくて。町医者は白内障で手術しろと言うんだが、総合病院の先生は勧めないといって、困っているんだ」
と言ったら、
「オレ、台湾で手術やってきたよ」
「えっ! 白内障の手術をか?」
「そうだよ。実は近視が進んで免許の書き換えが危なくなったので、友人の勧めで台湾の近視矯正の医師のところへ手術をしに行った。そうしたら先生が『これは白内障だから、近視矯正の手術はできません』と言うんだよ。その先生は日本語ができるんだ。『そうですか、それじゃ日本に帰って病院で検査を受けます』と言ったら『ぼくも白内障の手術ができる』って言うのさ。それでその場で右目の手術をして、いったん帰ってきた。それから1カ月して、もう一度台湾に行って左目もやってもらったんだよ」
最初の台湾行きは白内障の手術を考えていなかったので、車を空港の駐車場に預けていったそうですが、手術をしたために帰りは眼鏡の度が片方合わなくなってしまった。運転するのに大変怖い目にあったそうです。
その話を聞いて、例の白内障の方は目を丸くして驚いた。「よくそんな向こう見ずなことができるな。怖くなかったのかい?」。確かに、怖い話ですけれども病気も人によって受け取り方が違います。台湾の話は別にして、気持ちの持ちようで何事もなかったように病気が通り過ぎてしまうこともあるし、大騒ぎをして落ち込んで食事も喉を通らない性格の人もいます。
世の中には「うっかりミス」と「早トチリのミス」というのがあるそうです。物事のちょっとした不具合を早トチリして、これは重大な欠陥だと騒ぎ立て、実際は大したことではなかったのに、人々の生活を乱してしまうミス。反対に不具合を「まあ大丈夫だろう」とのんきに構えていて、取り返しのつかない手遅れにしてしまうミス。
正反対のミスですけれど、どちらも結果によっては大変なことになる場合があります。病気の場合は、どちらかといえば早トチリのほうがいいかもしれません。おかしいと思ったら直ぐに医者に行くという方がいますでしょ。何でもなければ、笑い話で済まされる。これが工場の仕事とかになると、早トチリでラインを止めてしまうと数百万、数千万円の損を会社に与えることにもなりかねない。笑いごとでは済まされなくなります。
世の中、ほどほどがよい。タイミングというのも大切でんな。
二宮尊徳翁は、天道と人道というものがあると言っています。二宮翁は江戸時代後期の農村指導者の一人で、通称は金次郎と言われていました。私たち小学生の頃は、学校の校庭の片隅に必ず薪を背負った金次郎少年が書を読んでいる銅像が建っていたものでした。
幕末の農業振興で大きな業績を残され、晩年は幕臣になられた方です。ですから農業の話をよくされます。
この話もその一つで、天道に任すと草木は生い茂り、畑はダメになってしまうということを説かれているわけです。天道は自然と理解してもいい。自然のままにしていると作物は雑草にやられてしまうということですね。人道というのは人が草木を刈ることを指します。
自然に放っておいても草木は生えず農作物だけ育てばいいのですが、そんなにうまくはいきません。生物が育つから農作物も育つのですから、そこで人道が必要になるのです。つまり雑草を刈り取る努力がないと良い作物は育たないのです。
人生における「運」というのもそういうものです。天道に任せて何もしないと雑草が生い茂り、惨めな人生を送ることになります。そこで人道で常に良い思考を潜在意識に送り込み、雑草が生い茂らないようにしなければなりません。
ここでいう雑草というのは、否定的な意味の言葉になります。