成功哲学に学ぶ 健康の法則
著者:山口天祐
第1章------気持ちで克つ
自分にはできると信じる
 「ちょっと自分にはムリかな……」
 何かをする前に、ちらっとでもそうした思いが頭をかすめると、すべてが消極的な発想になります。これが一番いけません。行動を起こす前に失敗という文字がすでに見えている。
 これは一般論ですが、わざわざ敵をつくって事を構えるのは、勝っても負けても褒められたものではありませんね。しかし、やらねばならないときに闘わないのは、生まれてきた甲斐がないではないですか。
 よくそういう人がいますでしょ。明日は闘わねばというときに、どうせ自分はここ一番に弱いからと言って、腰が引けてしまう人。自分の考えを主張しなくてはいけないときに、逃げ隠れしてしまう人。
 私は思うのですが、個々の人間の差というのはそれほど大きな差があるものじゃない。これは一般論ですよ。世の中には天才や奇人などもいらっしゃるから、すべての人とは言いませんが、普通の人間が相手なら頑張れば、負けるかもしれませんが何とかそこそこ格好がつく闘いができるのと違いますか。そういう努力をしていくうちに自分自身の力がついてきて、それまでダメだと思っていた相手にも克てるようになる。
 闘う前に気持ちで負けてしまったら、勝負は最初から見えています。だったら、闘う前に気持ちで克ったらいい。
 しかし、これも大きな目で見ると真理にはならないようです。本当は相手が誰であろうとも、いつも自分は変わらずに全力を出し切れる心を持つ。これが「絶対積極」というものです。
 「人ができることは自分もできる」
 こういう気持ちを持てば、どんな状況に置かれても慌てる必要はなく、ベストを尽くすことができると私は思います。
 何かに押されて積極性を持つのではなく、常にベストを尽くせるという平常心を持てば、生活が自然に理想的なものになってきます。何事も、
 「自分にできるのか?」
と思うより、
 「自分にできるはずだ」
と思ってやるほうが速度も完成度も違ってくるはずですよ。
 病気はまさにこの「気持ちで克つ」ことが大事です。ガンの告知を受けた途端に頭が真っ白になる。物事すべてに消極的になって、地獄が見えたとき、貴方の免疫力はガンに対して白旗を振っています。最初から無条件降伏になっているわけです。
 死ぬときはどんなことをしても死にます。まだ、あなたには寿命が残っている。「助かった。まだ命がある。私は運が強い!」そう思って、平常心を取り戻してごらんなさい。新たな方向が見えてくるはずです。

治るときがくれば治る
 病気というのは治るときがくれば、じたばたしなくても治ります。当たり前のことですけれども、これを信じることがなかなか難しい。
 「治らなければ、どうするんだ!」
 私に怒鳴ってもしようがありません。難しいことですが、悩んで治るなら私も一緒に悩んであげます。けれども、悩めば悩むほど病気には悪いんですよ。「オレはどうなるんだろう?」、そんなことを心配してもしょうがない。治ると信じることが大切なんです。治らないなどとクヨクヨしていると、病気に克つ最強の武器である免疫力が参ってしまう。治る病気も治らなくなる可能性があります。消極的な気持ちを努めて捨て去ることです。
 これは口では言えても、行動にするのはなかなか難しいことです。私もガンの経験があります。ガンといわれて「ガ〜ン」と頭を殴られたようになる。その気持ちも経験しました。厳しい現実を告げられて動揺するのは、私たち凡人にとって仕方がないこと。ガンと言われて動揺しないことなど普通の人ではありませんよ。だから、あえて私は言います。
 ガンと聞かされて、消極的な気持ちが後から後から湧いてくるのは当たり前のこと、自分の弱さのせいではない。けれどもこれを直ぐに捨て去る方法を考えるのが、病気の勝ち組になる秘訣の一つです。
 私は「紫イペ」という健康食品を販売していますが、先日、すい臓ガンのステージⅣと宣告された患者さんが電話をしてきました。本人は意識してガンのことを自分から調べたりせず、担当医に任せきっていた。だからあと4〜6カ月の余命などということは全然知らずにいたわけです。それほど暗い気持ちにもならず、むしろ心配そうな家族を励ましていたらしいのです。
 それでもガンですから、心配でないといったらウソになります。何か体にいいものをと探しているうちに「紫イペ」を飲んでみよう、ということになった。そうして飲みだして3カ月してマーカーが正常値まで落ち、半年で腫瘍がスカスカになって枯死した、というのです。
 本人がびっくりしたのは、腫瘍が小さくなったこともそうですが、その頃になって自分の寿命が半年もないほど悪かったことを、家族から聞かされたことだったそうです。もう大丈夫というときになって、家族も安心して医師から言われたことを話したのでしょうね。
 びっくりはしましたが、それはもう過去のことですから、
 「そうだったのか! 命拾いしたな……」
で収まった。
 だから私思うのですけど、真実はどう隠しても表に現れる、このことは紛れもない真理でしょうけれども、「真実を知る時期もある」ということでしょうね。特に「絶対積極」の心を持てないときに「貴方は半年後に死ぬ」と言われるのは辛いです。そう言われただけで、寿命が縮んだという人が何人もいます。本当ですよ。気の弱い人などはそうです。
 このすい臓ガンの人。よくなった原因はいろいろあるでしょうが、マイナス情報を排除して(この方の場合は自分から耳に入れなかった)、健康食品を飲んで体力をつけようという積極的な気持ちを持てた、ということも奇跡的に改善できた大きな要因だったのではないですか。
 今は辛いが、治る時期がくれば必ず治る。仮に結果がそうでなく、最悪のケースになったとしても、そう信じることで、本人はその間QOLを高く保ち生きることができるのではないですか。延命だってある。
 真実を知る。このことは大切なことですが、真実ほど辛いこともあるのです。
 私が紫イペを8年以上研究していただいている、関西医科大学のガン専門医(外科医)である川口先生と話をしたときのこと。
 「先生は、あと余命数カ月の末期の患者さんに告知をされますか?」
 「いや、以前はしましたけれど、今は止めましたよ」
 「ほう、なぜでしょう」
 「ある患者さんの例がありましてね。その方は有名なお坊さんでした。精神的な修行はずいぶんされているだろう、だから自分の命を知ることも従容として受け入れてくれるだろうと思いました。それで、あと余命3カ月ですと告知をしたら、ショックもあったのでしょう1週間で亡くなった。それからは、そうした告知は止めました」
 どんなに修業されていても、人間とは弱い動物です。

病になったら病を忘れる
 私たち病気になりますと、自然に物事を消極的に考えるようになります。それまで金が欲しい、恋人が欲しい、地位が欲しい、欲しい、欲しいと欲望の塊だったわが心が、病院のベッドに横たわった途端に、
 「金を余るほど持っても体が動かなくては何もできない……」
 「恋人ができても、体が健康でなくては幸せにできない……」
 「地位なんて健康に比べたら、何ほどのこともない……」
何も要らない……、となる。
 病人は考えてみると仙人のようですな。何も欲しがらず、ただ健康と平安と家族の和を願うのですから。ただし、これは見かけ上のことですけれど。ひとたび元気を取り戻したら、また、また金、セックス(失礼)、地位、名誉……。欲しい。欲しいに戻ります。
 病人は見かけ上の仙人と言いましたが、それは、諦めの境地から生まれた無欲だからです。ベッドの上では、毎日、それこそ寸刻も無駄にせず自分の病気のことばかり考えています。ネガティブの思考はどんどん煮詰まって、「欲しがりません、治るまでは」という心になるわけです。
 本当の仙人は本当に欲しがらないのか……? そんなことはありません。まあ、仙人というと浮世離れの話になりますので、悟りを開いた高僧としましょうか。物欲を捨て去った高僧(こういう人もあまりおりませんよ現実には)、というのは実はとんでもない大きな欲を持っていらっしゃる。それは言葉は悪いけれども、人間をコントロールしたいという欲です。人々に我欲をほどほどに捨てさせ、社会を安寧に導きたいという想念ですね。これは、やはり直ぐに手に入れることができない、大きな欲ではありませんか。この欲を手に入れるために我欲を捨て修行をするのだと思いますよ。
 少し話がそれました。病人の心境と高僧が欲を持たないのとでは、そういうわけで見かけは同じようでも、中身が違う。つまり、「自分が助かりたい」と「他人を助けたい」くらいの差があります。
 凡人は誰でも自分が助かりたいと思いますが、病人は自分が助かりたい気持ちが強すぎて、ちょっとしたことでも気に病み、消極的な気持ちになる。ここがいけません。まず病になったら病を忘れることです。せっかく我欲が薄くなったのですから、他のためになりたいということを考えるのも一つの方法ではありませんか。
 つまり、人間はどんなときにも欲が必要なんです。欲があるから生きようと努力もするし、人よりも長生きしようとします。
 欲の良し悪しというのはその内容にあります。元気な人がエネルギーの溢れるまま抱く欲望ですと他人様に影響が出てくる。病人は我欲が薄くなっているからちょうどいい欲を持てる。「助かりたい」ではなくて「助けたい」という積極的な欲を持ちなはれ。
必ず貴方が助かる道筋が浮かびます。

感謝の気持ちを持ち続ける
 知人からあるガン患者の方の話を聞きました。この患者さんも前にご紹介したすい臓ガンの人と同じで、やはり末期と診断されて即、入院ですよ。かりにこの方をHさんとしておきましょうか。
 入院して約1カ月、検査のためにHさんは何も食べずに点滴で過ごしたそうですよ。すごいですね今の医療技術は、1カ月間、水も食物も何も口にせず点滴だけで生きていられるんですから。それで1カ月後に検査結果が出た。すい臓の奥にある動脈に腫瘍が浸潤しているので、手術では切れないという医師団の結論です。ずいぶん時間がかかるものですね。
 だから直ぐ入院とか、直ぐ手術というのは、特殊なものを除いてそれほど「直ぐ」ということにこだわらなくてもいいということですね。医師から即、入院と言われても数週間ベッド空きを待つということもありますしね。それほど神経質にならないほうがよろしい。
 Hさんは仕方がないので抗ガン剤投与ですね。カテーテルを入れていわゆる動注を数クールもやるということになったそうです。知人が見舞いに行ってHさんと話をしました。
 病床に大学ノートが置いてあって、食事(抗ガン剤治療になってから食事をするようになった)のこと、投与する薬のこと、治療に関すること、それから日記風な記述がびっしり、毎日欠かさず書かれていました。几帳面な人ですね。
 たまたまマーカーなどの数値の話になって、ずいぶんよくなったといって、そのノートに書かれた数値を見せてくれたというんですね。Hさんはそのまま点滴を引きずってトイレに行きました。
 知人は数値だけ読んでノートをお返ししようとしたら、その上に書かれた部分に無意識に目が行ってしまった。申し訳なかったのですが。スッと知人の目が字を追ってしまいました。
 そこには、奥様に対する感謝の気持ちが素直な気持ちで書かれていたそうです。チラッと拝見しただけで、知人はHさんの病床での気持ちが分かりました。そのとき知人は「この方は、きっといい結果が出る」と思ったというのです。
 その話を聞いて、「その通り」と私も同感しました。ガンという激しく、頑固な病気は患者さん一人の精神力では勝ち目がありません。家族の愛、とくに配偶者の愛が必要なんです。
 前著にも書きましたけれど、配偶者が親身になって看病してくれないと、治る病気も治らない。これは私の20年間の経験的統計から導き出された持論です。患者がこうして感謝の気持ちを大学ノートに綴るほど、Hさんの奥さまは献身的に看病したに違いありません。  それもそうですが、感謝の気持ちをこのように無防備に表現できるのも素晴らしいことではありませんか。Hさんの心の中は必ず癒しの波長が流れています。これが病気にいい影響を与えないわけがありません。これ本当のことですわ。

不平・不満を口にする悪習慣を断つ
 不平・不満を口にすることは満たされない心の発露ですよ。満たされない心の向こうには、他人に対する嫉妬や他人の境遇に対する羨みなどが見え隠れしてます。
 こうした不満などをバネに発奮して成功する人もいます。成功談を聞いていると、小さいときに非常に貧しくて、事業を起こして金持ちになりたかった。美味しいものを食べたかった。高級車に乗りたくて人よりも頑張った。いろいろありますね。不平・不満を持つことは誰にもあります。ただ、これを習慣的に口に出す人は、逆境をエネルギーに転換できない人です。
 不平・不満を別な形に変換できる人は、よい形に出ればそれがバネになって大きな仕事を成し遂げ成功者になる。
 不平・不満を日常的に口にするようになりますと、そのことでエネルギーが解放されて、自分を変えたり、行動を起こす力になるようなエネルギーを溜めることができません。逆に言えば不平・不満を口に出すことによって、ガス抜きができて環境に順応できるということになりますね。
 こういうのって、サラリーマンによく見る姿です。それはそれでいいかもしれませんが、これでは、少なくとも心の平安や癒しを得ることができません。ひどい人は年中、相手構わず不平をぶちまけていますから、誰も近寄らなくなりますし、信用も失うでしょう。
 ですから不平・不満を口に出す常習者は、人を動かすことはできなくなる。事業など起こすことは無理ですね。こういう人たちはすべてのことに消極的な気持ちを持つでしょうから、せっかく天から与えられて心の奥底にしまってある積極的な心を生かすことができない。もったいないです。
 先ほど、やり方によれば不平や不満を積極的な心に働きかけて、大きな事業を達成することができると言いました。この場合も大切なのは「絶対積極」の心です。その境地を目指さないと、溜まったエネルギーの使い方を間違えて、大きな事件を起こすようなことになる恐れがありますね。
 「あんなに真面目で大人しい人が、こんな恐ろしい事をしでかすなんて……」
 「家庭内暴力をしているなんて聞いたことがなかった。明るくていい子でしたよ。親を殺すなんて……」
 最近、そんな真面目でごく普通の人が恐ろしい殺人事件を起こしたという報道をよく聞きます。そういう人たちも、心に不満を溜め込んで、エネルギーを別な方向に使ってしまったということでしょう。
 こうしたことを防ぐためにも、なかなか到達はできませんが「絶対積極」の境地を目指して、よい方向に向かって行ってもらいたいものです。
 私のところに電話をかけてくるお客様で、最初からずっと不平・不満をぶちまける人がおります。医師のこと、治療法のこと、家族のこと。果ては社会問題まで言ってきます。病気に関係ないですよ。でもいいです。それで心がすっきりするなら、私は聞き役になりますけれど、ときには
 「それだけ、いろいろなことを感じて話すエネルギーがあったら、別な方面に使ったら何かいいことできるのと違いまっか?」
と言いたくなります。
 病気に関しては、何度も言うように消極的なことは頭に浮かぶそばから捨てていくことが絶対必要です。天風先生にお弟子さんが聞いたそうです。「先生、先生は消極的にならないのですか?」と。先生は答えられました。「誰だって消極的になる。それをどれだけ早く積極的にするかだ」と。
 治療法など疑問があったり、違うなと思うことは担当の先生に話さないといけません。これはその場、その場で解決していかないといけませんが、解決できないもの、たとえば看護師の顔つきだとか、物言い、医師の態度、家族の仕打ち、そんなことは一々口にしても解決にならない。直ぐに忘れたらよろしい。
 看護師が挨拶できなかったら、自分からしたらいいんです。邪魔にならない程度に大きな声で、お世話になる人には挨拶しなさい。あなたが入院中でベッドの上にいるなら、あなたの言葉をみんなが聞いてますよ。それでも医師や看護師の態度が横柄なら、回りの人があなたに味方をしてくれます。それが人を動かすコツですよ。自分で自分の不利益を主張するよりも、周囲の人が動いてくれたほうが第三者にも認めてもらいやすい。
 相手がバカ(失礼)なら、それ以上に自分がバカになったらいいんです。バカになるのは難しいことですよ、でもバカになりきれたら不平・不満もなくなります。血圧も下がって、免疫も活性化するでしょう。あなたはただじっと自分の病状を回復するのを待てばよろしい。病人は治れば「勝ち組」です。清々した気持ちで病院を後にできますよ。

病を育てる人にはならない
 こういう人よくいますよ。自分で病気をつくって、自分で症状を重くする人ですね。こういうことってないですか。同じ病気でほぼ同じ症状を持っている人を知っていて、片方はまるで健康な人みたいに元気そうだし、片方は今にも死にそうに見えるってこと。
 あるでしょう。これも人それぞれの考え方一つで違ってくるのですね。先日、面白い話を聞きましたよ。白内障の患者さんのことなんですけれど。
 目がどうもチカチカして近視も進んできた。それで町の個人病院に行った。
 「これは白内障で核化(つまり水晶体というレンズが老化で固くなっていく)による近視が進んだ状態です。手術で水晶体を取り替えれば、よく見えるようになりますよ」
と言われたんです。よくある話なんですけれど、この患者さん目を手術するということでふさぎ込んでしまった。大きな病院に紹介状を書いてもらって再検査をし、治療を受けてくださいと言われたんですが、それからは会う人ごとに「白内障で手術だ!」と宣伝して歩いた。
 本人にとっては大変なことなんですよ。メールを打つときにも、必ずその話で終わるような始末。知り合いに触れ歩いて、手術が彼を知る人にとって既成の事実になってしまった。そして数日後に総合病院の眼科で検査を受けたら、
 「まだ眼鏡で矯正できる段階だから、手術は勧められない」
と言われました。
 手術はしないでよかったし、本人もほっとしたんでしょうけど、知人・友人に白内障の手術が明日にも行われるように話してしまった。自分の落ち込みようも知れてしまったので、恥ずかしくてしょうがない。まあ、それはそれで解決したからよかったですけれども、病気になると悪いように悪いように考える人がいます。この人などはまさにそうですね。
 こういう人はときとして軽く済む病気でも、本当に医師が手こずるような患者になることがあります。
 「山口さん、もう普通にしていて大丈夫ですよ。治ったも同然です」
 「いや、先生。どうも胃の辺りがまだ重いんです。MRIもう一度やってください」
なんて患者を相手にすると、医師もため息をついてしまいます。実際、治ったことを医師が一生懸命説得しなくてはならない場合もあるようですよ。こういう患者は病を育てる人の典型ですよ。
 実は白内障の話、後日談があります。たまたまその人の友人に電話して、
 「いや、目がおかしくて。町医者は白内障で手術しろと言うんだが、総合病院の先生は勧めないといって、困っているんだ」
と言ったら、
 「オレ、台湾で手術やってきたよ」
 「えっ! 白内障の手術をか?」
 「そうだよ。実は近視が進んで免許の書き換えが危なくなったので、友人の勧めで台湾の近視矯正の医師のところへ手術をしに行った。そうしたら先生が『これは白内障だから、近視矯正の手術はできません』と言うんだよ。その先生は日本語ができるんだ。『そうですか、それじゃ日本に帰って病院で検査を受けます』と言ったら『ぼくも白内障の手術ができる』って言うのさ。それでその場で右目の手術をして、いったん帰ってきた。それから1カ月して、もう一度台湾に行って左目もやってもらったんだよ」
 最初の台湾行きは白内障の手術を考えていなかったので、車を空港の駐車場に預けていったそうですが、手術をしたために帰りは眼鏡の度が片方合わなくなってしまった。運転するのに大変怖い目にあったそうです。
 その話を聞いて、例の白内障の方は目を丸くして驚いた。「よくそんな向こう見ずなことができるな。怖くなかったのかい?」。確かに、怖い話ですけれども病気も人によって受け取り方が違います。台湾の話は別にして、気持ちの持ちようで何事もなかったように病気が通り過ぎてしまうこともあるし、大騒ぎをして落ち込んで食事も喉を通らない性格の人もいます。
 世の中には「うっかりミス」と「早トチリのミス」というのがあるそうです。物事のちょっとした不具合を早トチリして、これは重大な欠陥だと騒ぎ立て、実際は大したことではなかったのに、人々の生活を乱してしまうミス。反対に不具合を「まあ大丈夫だろう」とのんきに構えていて、取り返しのつかない手遅れにしてしまうミス。
 正反対のミスですけれど、どちらも結果によっては大変なことになる場合があります。病気の場合は、どちらかといえば早トチリのほうがいいかもしれません。おかしいと思ったら直ぐに医者に行くという方がいますでしょ。何でもなければ、笑い話で済まされる。これが工場の仕事とかになると、早トチリでラインを止めてしまうと数百万、数千万円の損を会社に与えることにもなりかねない。笑いごとでは済まされなくなります。
 世の中、ほどほどがよい。タイミングというのも大切でんな。

天道と人道
 二宮尊徳翁は、天道と人道というものがあると言っています。二宮翁は江戸時代後期の農村指導者の一人で、通称は金次郎と言われていました。私たち小学生の頃は、学校の校庭の片隅に必ず薪を背負った金次郎少年が書を読んでいる銅像が建っていたものでした。
 幕末の農業振興で大きな業績を残され、晩年は幕臣になられた方です。ですから農業の話をよくされます。
 この話もその一つで、天道に任すと草木は生い茂り、畑はダメになってしまうということを説かれているわけです。天道は自然と理解してもいい。自然のままにしていると作物は雑草にやられてしまうということですね。人道というのは人が草木を刈ることを指します。
 自然に放っておいても草木は生えず農作物だけ育てばいいのですが、そんなにうまくはいきません。生物が育つから農作物も育つのですから、そこで人道が必要になるのです。つまり雑草を刈り取る努力がないと良い作物は育たないのです。
 人生における「運」というのもそういうものです。天道に任せて何もしないと雑草が生い茂り、惨めな人生を送ることになります。そこで人道で常に良い思考を潜在意識に送り込み、雑草が生い茂らないようにしなければなりません。
 ここでいう雑草というのは、否定的な意味の言葉になります。

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