成功哲学に学ぶ 健康の法則
著者:山口天祐
第2章------運を引き寄せる
「幸せだなあ」
 昔、加山雄三さんが、この「幸せだな〜」という言葉を流行らせた。加山さんが歌う「君といつまでも」という大ヒット曲の中で言うセリフですけれども。このセリフを言うときの加山さん、実に恥ずかしそうに、ニヤニヤして、それがまたファンには受けたのでしょうね。
 よく言われますけど、この「幸せだな〜」とか「うれしい」、「楽しい」といった言葉を話すとき、ほとんどの人は無意識にニヤニヤ、あるいは破顔一笑ということになる。逆に、「やっつけてやる!」「このヤロー!」「くたばれ!」という言葉を吐くとき、顔はどうなります? きつい顔になりますでしょ。
 顔と心はつながっているそうですな。よほど気持ちの強い人でないかぎり、咄嗟のときに「顔で笑って心で泣いて」ということはできまへん。どうしても悲しいときは悲しい顔になりますし、喜んだときは笑ってしまいます。それが人間でっせ。
 犬や猫はうれしくても悲しくても、顔には変化が出ない。鳴き声はそれなりに区別はありますが、表情が豊かに変えられるというのは、人間だけが持つ特権でんな。
 この特権を大いに利用しない手はない。とくに心が顔を変えるというだけではなくて、その逆に顔が心を変えるというのも真理だそうですから、どんどん顔を楽しい表情に変えたらよろしい。いつも楽しい気持ちになれますよ。
 いつも笑顔をたたえている人は、誰からも好かれます。それはやはり、笑顔を絶やさない人は悪いことを考えないという真理を皆さんが分かっているからでしょう。人は同時に異なったことを考えることができないもんです。
 そういうことを考えると、「幸せだな〜」といつも心に呼びかけていると、体も健康になるし、人からは好かれるし、良運も向こうからやってくるということになります。これは皆さん信じてやってごらんなさい。いつも心の中で、あるいはときには口に出して「幸せだな〜」と言うのがいいですね。年中、これを口に出していると頭を疑われます。いやいやそれは冗談で、いつも口に出せるならそのほうがよろしい。
 人から「おかしいんと違う?」と言われるくらい徹底してやれば、必ず運のほうからあなたに擦り寄ってきますよ。
 実際、笑い顔をするだけでNK細胞が活性化して、免疫力がグンと上がるそうですよ。病気にだって悪いわけがない。健康運は必ず上昇しますよ。眉をひそめて、難しい顔をしているより、絶対にいい結果が出ますよ。
 仕事をするのは、地位が上がるから、金になるから、生活のため、とよく皆さん言いますが、金のために仕事をするというのは淋し過ぎますね。現実はそうだったとしても、仕事の中に自分の働く意味を見出さなければ、それはロボットと同じです。ロボットは昨日も今日も同じ動きをするのがいいロボットなのです。昨日と同じように動くと思って電源を入れたら、今日はとんでもない動きをするようになった。これでは困ってしまいます。
 人間もそうでしょうか。違いますね。昨日よりも今日、今日よりも明日、同じことをやるにも、少しでも工夫や進歩が見られなければいけません。なぜかというとロボットは考えることをしませんが、人間は考える生き物だからです。ロボットと違って仕事の目的、意義というものを理解できるからです。
 だから、たとえお金のために働くとしても、仕事の中に自分らしさ、改良・改善、そして楽しささえも見つけ出すことができます。
 嫌々仕事をやっていると、どうしても手を抜こうとします。言われたことしかやりたくありません。だから、むしろロボットのほうが正確で文句も言わず能率的な仕事をしてくれるということになります。嫌々仕事はロボット以下ですね。
 嫌々仕事をしていると体によくありません。楽しさの見出せない労働ほど疲れるものはないからです。そんなあなたは必ず病気という悪運を呼び寄せますよ。
 ですから、仕事をするにも「幸せだな〜」と思えるような工夫をしてください。仕事の中に、あなたでなくてはできない……、と人に思われるやり方を見つけましょう。一年通して同じやり方の仕事ではなく、昨日と今日ではここが違うと言えるような仕事のやり方が大事なんです。
 そのやり方を続けていると、必ずあなたのところに強運が舞い込みます。

言葉が持つ無限の力を信じる
 ちょっと話が堅くなってしまいましたね。しかし、あなたが思うほど人はあなたを気にしていないし、あなたが考えるほど無視もしていません。どこかで誰かがあなたの行動を見ていますから、どんなことにも積極的に取り組むほうが、たとえ直ぐに効果が上がらなくても、いつかは人が認めて結果的にあなたのためになりますよ。
 人の目を気にしない域に達すると「絶対積極」の境地になれるわけですが、凡人はなかなかそういうわけにはいきません。
 人が放つ言葉や態度で毎日一喜一憂するのは、私もあなたも同じです。ということからすると、言葉ほど恐いものはありませんよ。ちょっとした言葉の使い方で人生を棒に振った人もいますし、逆に幸運を得た人もいる。
 面白い話を聞いたことがあります。昔、ある人がレントゲンで胃の通し撮影をやったというのですね。裸になってやってもらったら、技師さんが、
 「あれ!?」
と言ったそうです。
 そうしましたら、被験者の胃がギュッと固まってしまった、というのです。
 「ひょっとしたらガンが見つかったのか!?」
と被験者は一瞬思いますよ。
 本当の話かどうか分かりませんが、もし本当だとしたら酷い技師さんもいたものです。健康は一番気にしているときですから、冗談でもそういう誤解されるような言葉を発してはいけません。
 もう一つ、これはお客さんから聞いた話ですが、大腸ガンの疑いがあってある偉い先生に頼んで紹介してもらった病院で検査を受けたそうです。そうしたら担当医が病状を説明してガンの告知をして、治療方針なども話してくれました。「大丈夫ですよ。私も精一杯やりますから」と言ってくれたそうです。そのときに院長さんという方が、紹介者に敬意を表す意味もあったのでしょう、診察室にきてくれて、ニコニコしながら、
 「もうちょっと早く見つかればよかったのにね」
と言ったそうですよ。
 その瞬間、患者はもちろんですが担当医も困ってしまったそうです。実際に大腸ガンの末期で手の施しようがない状態だったのですが、本人にはそこまで話していなかったのです。それが院長の一言ですべてが分かってしまったのですね。院長も悪気があったわけではないでしょうが、一度口から出た言葉は取り戻しようもなく、ご家族から電話をいただいたときは、急激にQOLが落ちて本人も諦めの境地になってしまっているようでした。言葉というのは使い方を間違えると恐いものですね。一瞬にして人間一人の命を奪いかねませんよ。
 以上は言葉がもたらした悪いほうの影響でしたが、言葉を良いほうに使えば無限の力を導き出すこともできます。
 他人の言葉を考える以前に、自分の言葉で自分の心を動かしてみることを考えてみませんか。私、昔、独立したころ、「1億円を手にする」と繰り返しエンドレステープに入れて、出張とか会社の行き帰りにずっと「1億円を手にする。1億円を手にする……」何百回もあるいは何千回も繰り返してイヤホンで聞いていました。周囲の人は何も気付きませんけど、ちょっとアホみたいなもんですな。
 ところが、数年後、私1億円くらいは稼いでいました。これ、よく考えてみると不思議でもなんでもない。あのマーフィー博士がその種明かしをしてますよ。
 つまり『豊かになるコツ』として「富を思えば豊かになる。貧乏を思えば貧乏になる。思うことは非物質的だが、想念することが富をつくり出す源になる」というわけです。
 想念! 思い願うことですよ。人間には誰でも豊かになる権利があると博士は言うのです。ただ、貧乏な人は自分が豊かになるということを知らずに暮らしている。成る程ね。だから、ここが肝心です、自分が金持ちでなかったらおかしいと思わなくてはいけない。権利を主張せよ!
 「必要なものはすべて手に入る」、そう心の奥から信じたとき、不思議なことにあなたはすべて充足される。
 ホンマかいな……。と、私は思いません。だって私は自分の潜在意識に金持ちになることを教え続けて、その結果実現したからです。
 お金の話ばかりでなく、私の場合は欲しいと思ったものが、どういうわけか向こうからやってきます。私、刀剣を集めていますが、刀剣の名品と言われるものは、普通の美術品と違って、なかなか持ち主が手放さないのです。だから欲しくていくらお金を積んでも手に入らない。ところが、不思議なことに私の場合は、欲しいと思う名刀がいつの間にか手許に集まってきました。
 この話は長くなりますのでまた次の機会に譲りますが、想念の力はすごいですよ。できれば想念を文章にして、夜寝る前に手鏡で自分の顔を見つめて、潜在意識に訴える。これを毎日繰り返してごらんなさい。必ず思ったことが実現しますよ。私は現実にやっています。
 恐らく、もう数ページも読み進んでいくうちに、あなたはここに書かれたことを忘れてしまうでしょう。これ!と思ったら、今からやってごらんなさい。「もし、お金があったら……」ではなく「お金がないのがおかしい」と思わなくてはいけない。これはマーフィー博士の言葉です。
 マーフィー博士は「不治の病などない」と言っています。あるのは「不治の病と信じきっている人の心を回復させるのが困難」だということなのだそうです。
 意識のコントロールはなかなか難しいことですが、言葉によって自分の潜在意識に呼びかけ意識を変えていくことができる、と私も信じます。言葉というのは想像する以上にすごい力を持っていると思いませんか。
 マーフィーの法則は真理です。

暗かったら窓を開けよう
 いい言葉ですね。暗かったら窓を開ければ明るくなる。夜だったらどうする? とかビルの中で窓がなかったらどうする? そういうことを考える人は成功とは無縁になりますよ。もし、いいと思ったら素直に感心すればいいんです。
 暗かったら窓を探して開ければいい。そうすれば太陽の光がどこでも差し込んでくる。
 「暗い! 暗い! 暗くて何もできない」
と言って立ち尽くすのでは発展がない。
 花を部屋に飾ったとします。ひまわりだとよく分かりますね。花は一日中太陽の光が部屋に差し込むのを感知して、首を太陽のほうに向けようとします。かりにその部屋に東から西にかけて窓がいくつかあったとしたら、そしてそのひまわりをビデオカメラで定期的に撮影していると、花首が東から西に回るのを見ることができます。
 何でそんなことする必要がある? 確かにそんなつまらないことをする暇はありませんね。でも、つまらないと思うからつまらないので、この窓と光というのは、ひまわりの一事をもってしても非常に大切な真理を示している、と、私は思います。
 つまり、強運を掴むということは、宇宙の真理を体で掴みなさいということをこのひまわりが教えていると思うのです。ちょっと何かの教祖みたいな言い方になりましたが、物事には大きな流れというものがあります。時代の流れ、考え方の流れ、社会の流れ、いろいろな流れがありますが、いずれも大きく見れば流れというのは人々がそちらを目指そうとする動きです。この動きが大きいほどベクトルが大きい。
 このベクトルを知るのに、心の窓を開けて見なさい、ということを示している。自分の中にばかり閉じこもっているとこの流れが見えないようになるのです。
 強運の中身は、個々人によってどういうものかが違ってきますが、いずれにしてもそれを掴もうという積極さがないと得られないものでしょう。棚から牡丹餅ということもありますよ、もちろん。でもそれは偶然ということ。身に付いた運というものではない。偶然を頼りに生きているのは馬鹿げています。
 裏返して言えば、ビルの屋上から看板やモノが落ちてくるのが怖くて、オフィス街は歩けないということと同じくらい馬鹿げている。
 私はね、強運の持ち主だと人が言ってくれます。3億円の宝くじに当る人は運のいい人だと皆さん言いますが、私ほど強運の持ち主も宝くじでは1万円も当たったことがない。毎回、密かに買ってはいるんですけど……。
 そういう千三つ(せんみつ)のことは、話として通ずる有意性を認めないものです。つまり、当たることもあるだろうけれど、あれこれ考えても当たるための法則も因果関係も何も出てこないよということです。
 やはり、運は自分で引き寄せてこそ意味がある。運を引き寄せる心がけが思いもかけぬ幸運をもたらすきっかけにもなる。天からのお年玉ですね。そういうこともあるんです。
 暗い!と文句を言わずに窓を開けるのが正解でしょうな。

立命と宿命を考える
 前題の続きをもう少し。運命ということに関してです。天風先生は運命を天命と宿命というものに分けられています。天命は生まれ出たときに背負っているもので、自分では変えられないもの。たとえば性、時代、家族、民族などですね。これに対して宿命は相対的な運命で自分が切り拓くことのできるものとしています。
 私は、次のように考えます。宿命というのはその人が背負わされてきたもの、つまり天風先生の言う性とか家族、民族、時代ですね。もう一つは自分で変えていくもの。これを立命だと思うのです。これから立てられる運命。自分で切り拓く運命。
 立命というのは辞書などでは、天命を全うすることとあります。つまり人間が生きようとする、あるいは生きたすべてが天命なのです。そういうことからすれば、私たちはどのように運命を切り拓いたとしても、それは天命から外れるものではないということになりますね。
 私は宗教家ではありませんから、この天命を自然の摂理・自然の真理とします。宿命も天命です。最近は性を転換する人もいますし、家族と絶縁する人もいます。しかし千三つを除けば、人は自分の生まれた環境も父母も、もちろん時代も勝手に変えることはできません。
 人生はこの宿命の中から、自分のできる範囲で運命を切り拓いていくものです。そして運を掴んで成功したとしても、それは大きく見れば天命の中での立身だったわけです。個人の一生は自然の中の小さな歯車の一つです。しかし、一つの歯車でも破損したり、なくなってしまったりしては全体が動かなくなるかもしれない。小さな歯車も大事なのです。すべてが天命の中にある。これが私の運命論です。
 自分は生まれつき体が弱かった、何万人に一人の難病にかかった、体の一部を失ってしまった。こういう方がたくさんいます。一見、運が彼らを見捨てたのかと思うときもあります。
 「何でオレが末期ガンにならなきゃならない! まだやることがあるのに」
 それもお気の毒と思います。特に病気に関しては遺伝的にそうした因子を持っていた、あるいはそうした体質だった、という宿命的(私の言う宿命)なものに大きく左右される場合もあると思います。
 そうした中でどうやって自分の運命をつくっていくのか、これも難問ではあります。しかし、直接の答にはなりませんが、次のような話があるので参考にしていただきたい。
 あるとき、Aさんとしておきますが、大変優秀な方ですが自分でデザインの仕事をしているフリーランサーですな。友人の飲食チェーンの社長で成功したBさんと久しぶりに飲んでいた。
 Aさんが、普段そんなことをあまり言わない人ですが、たまたま、
 「もうオレも歳で、こういう能力で勝負が決まるような仕事はそろそろ辞めようと思っている。お前はいいな、社長だから定年はないんだろ」
 「まあ、まだしばらくは会社を見ていかないと、息子もまだ経営を分かってないし」
 「老後は安心だな。金も溜め込んだろ。オレなんて自転車操業だよ。仕事止めたら食えなくなってしまう」
 Bさんはしばらく弱気になっているAさんを見ていて、慰めの言葉を贈ろうかとも思いましたが、急に考えが変わりました。
 「そんなことを言ってもAさん。あなたは私が送るような生活を目指してきたわけではないでしょう。あなたはあなたの目指した分野で立派にやっているじゃないですか。その意味では大成功ではないにしても、成功者の一人ですよ」
 これにはAさんも得心がいったようです。
 「なるほど。オレは金持ちになる生活設計はしてこなかった。だから金持ちにならないのは当たり前だ」
 人生それほど単純ではありませんが、自分がこうなろうと考えなくては真になりたい人生を送れません。
 金持ちになりたかったら、お金のことを真剣に考えなければ、あなたの許に集まってきませんよ。何をしたいのか、どうなりたいか、そう想念したことがあなたをつくりあげる基になっています。
 「何も考えずに生きてきた」
 こういう人は、それこそ運命に翻弄されますね。

運がいいと自分で信じる
 自分で運がいいと信じられたら幸せですよ。私は「自分は強運だ」と思っていますけれども、私より運がいい人は恐らくたくさんいますよ。イチローや松坂大輔選手はすごい強運です。それに引退した新庄選手も強運の持ち主ですね。そんなことは言われなくても分かっています。でも、そうしたものは相対的なもので、私とイチロー選手とどちらの運がいいかなどと比較しても何も得るものがありゃしません。
 「絶対積極」では、自分の運命は自分で切り拓け、ということになっています。他人と自分を比較するのではなくて、自分自身をそのまま評価しなさい、ということですね。自分が全力を出し切れているか。感情のままに動いていないか。苦労だと思っていないか。そうした消極さを生むものに支配されて、人生を評価していないか考えてみろ、というわけですね。これは考えてみると厳しいですよ、人間は感情の動物ですから。感情のない生活などありませんものね。
 けれども、できるだけ消極さを打ち消していくと、自分の本来の姿が見えてくるのは事実です。それが自分なりに精一杯のことなのか、どこか力を出し切れていないものなのかが見えてくるわけですね。そんなことをしなくても、自分のことは自分でよく分かっていますが、でももっと深く自分を見つめてみると、消極的な感情にいかに支配されているかがよく分かってきます。
 自分が「幸せだな〜」と信じられたとき、このときは明らかに良運が訪れているのでしょう。病気の人はみな不幸せか? そんなことはありませんよ。ベッドの上で過ごさなければならないことは他人から見たら不幸せかもしれません。もちろん患者さんの99%は「あ〜辛い」と思っているかもしれません。
 先日、ある末期ガン病棟の先生に用事でお会いしたとき、こんな話をしてくれました。
 「ちょっと以前、大腸ガンで末期の方に、『こういう健康食品があるそうで、これを飲んだ体験談で治った方の話も出ているよ』と言ったら、早速それを飲んでみたらしい。こちらは飲めとか、ダメとか言わないんですよ。そういう考え方もあるという話はします。なぜかといったら、私たちはもう痛みを止めてあげることしか治療法がないものですから、何とか生きる気持ちだけでも持たせたいと、いろいろ試してみるんです。そうしたら、それを飲み始めて、翌日から目の力が違ってきたんです。
 『朝、目が覚めることの幸せということを感じるようになった』とも言うのです。もしかしてこのまま生きられるかもしれないというほのかな希望を持てたのですね。
 結局、その方は亡くなりましたが、少なくともQOLを高く維持したまま、眠るようになくなったと私は信じています。もちろんかなり延命もできました。これは大事なことだと思いますね。どんなに人生の厳しいときを迎えても希望を持つことです。人間死ぬということは考えたくないものですよ」
 これも「幸せ!」ということの一つの表れですよね。私はそう思っているのですが。「ああ、今日も朝目が覚めた。オレはまだツイている」と信じられること、他人が見たら「そんなもの……」というかもしれませんが、本当は何よりも強い幸せ感かもしれません。
 積極的に信じてしまったほうが、誰が何を言おうとも勝ちになる。金持ちがどんなに「オマエの貧乏さにあきれるわ」とけなしても、自分が幸せだと思ってしまえば負けにはならないのと同じです。
 最後は気持ち。心構えですよね。物質ではありません。物質で勝ち負けを競うから負けるのです。ここにも「絶対積極」の真理があるような気がしますね。

コロリ転んだ木の根っこ
 「待ちぼうけ」という童謡があります。農夫がある日せっせと野良仕事をしていますと、そこにウサギが走ってきた。見ていると、このウサギが木の根っこに足を引っ掛けて、コロリと転げてしまった。苦労することなく農夫はウサギを生け捕りにできたわけですな。
 それからというもの、農夫はこの木の根っこが気になって仕方がない。いつまたウサギが木の根っこに足を取られて転げるかもしれない。グズグズしていると逃げられてしまうので、一日中、木の根っこのそばで待ちぼうけをするようになってしまった。けれども、いつまで経ってもウサギは再び転げてくれません。
 野良仕事はしなくなり、畑は荒れ果てて収穫もなくなった農夫は食べるのも苦労するようになってしまった。という意味の詩がついた童謡です。
 昔の子どもの歌というのは、奥が深いですね。大人にも十分通用する歌ですよ。「ウサギとカメ」なんかも皮肉たっぷり、教訓に満ちた童謡です。「だいこくさま」に出てくる因幡の白兎伝説などは恐いくらいです。他人(お話ではサメですが)を騙すと皮までむかれてしまう。
 「待ちぼうけ」の歌に戻りますが、この歌の本意は他力本願をいさめた歌です。そういう濡れ手に粟のような美味しい話が世の中にあったとしても、これに興味を示してはいけないよ。本来の仕事に精を出して働きなさい。
 ま、簡単に言うとそういうことでしょ。昔はこういった話が通用しましたけれど、今は全く通じなくなってしまいました。昔というのはいつでしょうか、少なくとも私の子ども時代から成長期の頃までは、モノづくりの時代でした。原料となる資源は日本に少ないけれども、それを輸入して優秀な製品をつくり、海外に輸出してご飯を食べていこうというコンセンサスが国民に行き渡っていました。
 ところが、最近はモノづくりよりも効率よくお金を稼ぐ方法が見つかったというわけで、日本人がモノをつくることを軽視する状態になっています。
 だから逆に「待ちぼうけ」の歌が別な意味で理解されるような、そんな国民性が出てきたのと違いますか。つまり、畑仕事をしているよりも木の根っこを探すほうが手っ取り早く金儲けができると人々が考え出している。これはとても心配です。ここでいう運というのは木の根っこでウサギが転げることを言っているのではない。つまり偶然に近いようなことを誰も彼も求めていると、耕さなくなった畑のように日本の文化が荒れ果ててしまうような気がします。
 運というのはそれを大事にしてくれる人のところに、やってくると私は思うのです。
 「おかしなこと言うおっちゃんや」
と言われるかもしれませんが、これ本当ですよ。
 さっきお金を大事にしないと、あなたの許に来てくれないよ、という話をしました。これも面白い話があって、あるビジネス関係の講演家がお金に関する話をしました。
 「誰だって、自分を大事にしてくれる人が好きです。自分の才能を認めてくれる人のところにいって一緒に仕事をすることを望んだり、その人のためになることをしたりするのがうれしいと思うようになります。
 実はこの法則はお金にも通用する話です。私は福沢諭吉さんのお札が大好きで、その能力も十分認めております。したがって、お財布にしまうのも天地逆さまにしたり、表裏不揃いにしまったりするということは許せない。角が折れたままぞんざいにしまい込むなど言語道断です。財布から出して他人様に渡すときは『どうか、また私の所にお戻りください。居心地のよろしいように準備しております』というようにお話をして手放します」
 この人、バカと違う? いやいや、とんでもない。スピーチで全国の企業や組織に招かれて講演やセミナーで稼いでいらっしゃる、成功者ですよ。
 この人なら本当にそういうことを真面目にやっているに違いない、講演を聞いている人はみなそう思いました。
 世の中、いろいろな人がいますね。ただ、やはり好きになるのも分相応ということもあるので、「偶然」を好きになるのは止めたほうがよろしい。

しがみつくな!
 よく考えるまでもなく、私たちはいろいろなものにしがみついて生きています。家族、仕事などはしがみついているのか、しがみつかれているのか分からなくなってますけど、夢とか誇りとか体裁とか、そういうものもあります。
 夢とか誇りなどはきれいな言葉ですけれども、度を超すとこだわりなどといわれてしまいます。
 物事にとらわれて、これにしがみつくようになりますと、新たな展開というものができなくなります。先が見えなくなって、方向を誤るようになることもあるし、逆のことを言うようですが、ある一点だけに焦点が合ってしまって、目の前の幸せが見えなくなってしまうこともある。
 『青い鳥』というメーテルリンクの童話があります。物語はクリスマス前夜の話で、チルチルとミチルという兄・妹が住む貧しい家には、サンタさんが今年は来ないようです。
 向かいの家では、ツリーを囲んで楽しいクリスマス・パーティが行われています。それを見ながら遊んでいた二人の兄妹のところに老婆が現れて、病気の娘のために青い鳥を探してきて欲しいと頼むのです。
 こうして旅に出た二人は、いろいろなことに出会いながら、それまで頭の中に幸せのすべてと思っていたお金や地位などより、もっとかけがえのない幸せがあるということを知るわけです。
 要するにこの二人はお母さんと一緒に元気に暮らせるという、目の前にある幸せに気がつかずに、自分たちにないものばかりを求めてしまうというお話です。
 これなども、幸せというものはお金があって、プレゼントをもらって、美味しいものを食べて……、それが幸せだという欲望にしがみついてしまったために、実際は幸せなのに不幸だと思ってしまう。その矛盾を童話で説いたものです。ありもしない幸せというイメージだけを追いかけると、手許の幸せが逃げてしまうよ、ということでもありますね。
 童話だといっても、含蓄がありますね。でもこの話はとても難しいし、取りようによっては、裏と表がある。自分の分をわきまえろというようにも取れます。かりに現在が苦しくても、我慢できるように納得させなさい、というようにも思えるわけですが、そういうことを言い出すと、品性を疑われることになる。
 やはり一番大切なのはお金でも名誉でもなく、家族の健康であり、家族の和なのです。一つのことにこだわりを持ってしがみついてしまうと、他のことが見えなくなってしまいます。これをはずさないと他のことが考えられない。そのために人間も大きくなれない、仕事も伸びない、ということは確かにありますよ。
 ガンという病気はお医者さんが治してくれる病気だと思っている方がいる。でも、それは違いますよ。病気というものはみなそうですが、とくにガンは自分で治す病気なんです。自分の心で治す病気だと思えた人が、ガンに克つことができると私は確信しています。
 これはいろいろな人がそう言っている。中村天風さんも、マーフィーさんも、あるいはお医者さんの中にもそういうことをおっしゃる方がいる。だからある真理をついていると思います。
 なかには、「心を空にして医学に身を任せるのがいい」と言う人がいます。考え方として、これはあきませんな。自分がありませんもの。諦めてじたばたしないのが潔いかのように見えますが、自分の病気は自分の心で治すもの。自分は治るのだ、自分は健康だと潜在意識に働きかけて、免疫力を最高に押し上げていかないと、このガンという頑固な病気には太刀打ちできません。
 医者というのは、一般論ですけれども、物理の世界にいる人です。過去の経験と統計的推論から導き出されたものが治療の手法として用いられます。ですから臨床が非常に大切ですし、実験が大切です。
 現代医学の基本にある、過去の経験を重視する姿勢は大事なことですが、これにしがみついていると、とんでもない落とし穴が待っている。なぜなら、経験はあくまでも経験ですべてではないからです。私たちの科学はいろいろな現象を説明し、またその理屈を利用して便利な道具を作り出すことに成功していますが、でも、まだまだ人間の知りえたことは自然の真理すべてではないですね。経験のないことにぶつかると、いつまでも新たな手法に切り替えられない状態が続いてしまう危険性を抱えています。
 ガンなどはまさに、現代科学の盲点をついて現れたメカニズムのような気がします。ここは既存のデータや数値にしがみつくことなく、体が持つ力を大切にして展開した東洋医学や、民間療法などにも学ぶ気持ちが必要ではないですか。
 ですから、最善の医療を受けながら、あくまでも病気に克つという心を持ち、立ち向かわなければ、なかなかガンを克服することができません。

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