神々と歩く強運への道
著者:棚橋美元
第2章------開運の大原則
神の存在を実感する
 さて、第一章で人間は誰でも神の子であると述べました。
 神は存在し、その末裔として、私たち人間がこの世に生きているということです。
 ところが、神について語ろうとすると、とても紙数が足りません。平和教の斎神を紹介し、解説するだけでも膨大な紙数が必要になります。そこで、神とは何か? 神とはどのような存在なのか? という壮大なテーマについては別書で語ることにして、あなたが神の存在をイメージすることができるヒントを差し上げましょう。
 まず、生まれたばかりの赤ちゃんにとって、母親は最大の庇護者になります。おっぱいやミルクを与えてくれるだけでなく、寒くないか暑くないか、怪我をしないか、よく眠れるかなど、細心の注意を払ってくれます。
 赤ちゃんが、生きるのも死ぬのも、母親次第。つまり、赤ちゃんにとって母親は絶対的な存在であるわけです。
 スイスの教育実践家であるペスタロッチも、「児童にとっては、母は神である。母に対する愛。帰依の感以上に宗教的なものはない。これは後に発達して、天父に対する信仰となるのである」と述べています。
 そして、赤ちゃんが成長して幼児になると、その母親や家族を庇護している父親の存在を意識するようになります。信仰とは、絶対者である母親を意識し、さらにそれを庇護する父親の存在を意識することから始まるという学説です。
 このように、赤ちゃんにとって母親は神であり、父親は同等、あるいはその上位の神であるとする概念ということになるでしょうか。
 もちろん、赤ちゃんが幼児になり、幼児が少年や少女になって、やがて大人になれば、母親や父親のことを絶対者として崇敬、畏怖することはありません。それどころか、邪魔にされて、昨今では家庭内暴力に発展してしまうこともあるわけです。
 それはさておき、この原初的な神に対する信仰心の根源を辿っていくと、「なぜ、自分という人間が存在しているのか」というテーマに突き当たるはずです。
 一人の人間がこの世に生まれるには、父親と母親が必要です。そして、その父親や母親にもそれぞれ両親がいます。それを遡っていくと、永遠のかけ算になり、あなたがこの世に存在するためには、膨大な人数の“先祖”が関わっていることが理解できるでしょう。
 また最近では、女性天皇や女系天皇の論議が盛んになり、男系のY染色体が途切れてしまえば、天皇家の血統がそこで消滅してしまうと論議されています。つまり、男系とは男性のみが持っているY染色体を継承することであり、一度女系天皇を認めてしまえば、万世一系の皇統が途絶えてしまうという意見です。
 皇室のことはさておき、自分自身のY染色体、つまり男系の祖先を辿っていくと、一家の祖先がいて、一族の祖先がいる。さらには村や町の祖先がいて、ついには国の祖先に行き着くことになります。
 さらにそれを遡れば、生命の起源や宇宙の誕生まで辿らなくてはならないのですが、ここでは祖霊信仰について話を進めて行きましょう。
 人間にとって最も大切なものは、その生命です。
 生命は、ある日、突然に生まれるものではなく、その親から生み出されます。つまり、親こそわが生命の本原であるということなのです。
 子供は成長するにしたがって、親からその親、つまり祖父や祖母の話を聞き、さらにはその先の祖先の話を聞きます。自分自身の生命は親から授けられたもの、親の生命はその親から授けられたものとして認識し、その祖先に対して親以上の尊敬の念を抱くようになるわけです。
 父親も母親もまた、やがて死によって霊になり、やがて神になっていきます。
 神道において、人は死ぬとまず幽界に入り、やがて霊界へと進み、ついには神界に至ると説いていますが、それは抽象的なものではなく、現実に存在する魂の進化でもあるのです。先のペスタロッチが、学説として「児童にとっては、母は神である。その延長線上に天父に対する信仰がある」と述べていますが、それは単なる概念やイメージではなく、現実に存在する霊と人間との関係だといえるのです。
 また、万物の霊長である人間だけが、祖霊に対する信仰心を持っています。
 いくら知能の高い類人猿でも、その祖先を祀ることはしません。まさに人間だけが、祖先に対する信仰心を持っているのです。
 それぞれの家庭には仏壇があり、先祖伝来のお墓があります。「うちは分家でマンション住まいだから、仏壇は持っていない」という方もいらっしゃるでしょうが、その本家には仏壇と墓はあるはずです。仏教ではなく神道を信仰していれば神棚が、他宗教であれば違った形での祖霊を祀る何かが置かれていることでしょう。
「霊の存在などは信じない。人間が死ねば無になる」と考えておられる方もいらっしゃいますが、それは霊の存在を感じることができない不幸な方だと言わざるを得ません。
 私たちの日常で、危うく危機から逃れた人に「良かったね。たぶん、あなたの守護霊か守護神が護ってくれたんだよ」と言うことがあります。そうした場合は、実際に守護霊や守護神に護っていただいているのですが、それを迷信や非科学的なものとして切り捨ててしまう方も残念ですがいらっしゃるわけです。
 しかし、それが迷信や根拠のないものであったのなら、これまでの時代に化けの皮が剥がれていたでしょう。
 それが太古の時代から連綿として続いていることは、その時代に生きてきた人間がその存在を実感し、その影響を受けてきたという証拠ともいえるのです。現代を生きている人間に「神は存在する」と言うと、それだけで尻込みされてしまうこともありますが、亡くなった先祖が霊になり、やがてその霊が神になると説けば、意外と受け入れてくれるものです。
 それに日本では、どんな小さな村や町にも神社があります。
 その祭神を調べてみると、大きな神社から祭神を勧請したものも多く見かけることができますが、実際のところは勧請した祭神に加えて、その土地の氏神様を祀っています。氏神様とはその名の通り氏の神様のことで、その土地に住む人間、つまりは氏族の祖霊を祀っているのです。
 そして、神社の氏子とは氏神様の子供たちという意味で、お正月やお祭、七五三の時、あるいは人生の節目などでお参りするのは、氏神様に対する感謝の気持ちを表すことでもあるのです。
 一口に神様というと、はるかに遠い存在のように思えますが、私たちの近くには氏神様がいらっしゃいます。また、その氏神様もかつては人間だったことを思えば、神の存在を身近に感じることができるのではないでしょうか。
空間もまた神に関係している
 氏神様が血統的な「縦の関係」とすれば、「横の関係」である産土鎮守神も存在します。
 縦の関係とは時系列に沿って自分という存在を確認するものであり、横の関係とはまさしく空間で自分自身を、そして神を認識することでもあります。
 産土鎮守神は私たちが生まれた土地の守護神であり、私たちの住んでいる土地の守護神と言い換えることができるでしょう。
 生きるということは、呼吸をすることであり、衣服を整え、食事をし、住まうことでもあります。さらには働いて収入を得て、道具や器具を使い、光熱のエネルギーを得たりもするわけです。
 普段は、こうしたことを意識することなく暮らしていますが、生きるということは、その土地という「空間」と密接に関係していることがわかります。
 人間が一人いると、その住む家があり、その家は村や町、あるいは区に属しています。それらの集合体が各都道府県であり、それを拡大すれば国になります。多くの国が集まっているのが地球であり、地球は太陽系を構成する一つの惑星です。太陽系は銀河系を構成する惑星群の一つであり、銀河系は大宇宙を構成する要素の一つでもあります。
 これを具体的に住所に当てはめてみましょう。
 Aさんは東京都の世田谷区に住んでいます。この時点でAさんは世田谷区民であると同時に、東京都民であり、日本人、地球人、宇宙人でもあるのです。宇宙人というと飛躍した言い方のように聞こえますが、地球そのものが宇宙を構成する惑星の一つであるため、地球人もまた宇宙人の一種といえるわけです。
 生きるということをマクロに捉えるとAさんは宇宙人ということになるのですが、ミクロに捉えるとAさんは東京都世田谷区に住んで、そこの空気を吸って生活しています。そして、都内の会社に出勤し、家の近所のスーパーで買い物をし、電気は東京電力、ガスは東京ガス、上下水道は都の設備を利用しています。
 Aさんが、いくら「アメリカの空気を吸いたい」と思っても、そこに住んでいる限りは不可能なことです。つまり、その場所に住むということは、大なり小なりの土地の影響を受けているということになるのです。
 さて、産土鎮守神に話を戻しましょう。
 日本における産土鎮守神とは、行政単位に似ています。住んでいるそのエリアを受け持つ神がいて、その町や都道府県、あるいは地方を受け持つ神がいるのです。
 童謡の『村まつり』で唄われているように、「村の鎮守の神様の今日はめでたい御祭日」の一節は、日本ののどかな原風景を想像させてくれます。この童謡に見られるとおり、その地域に住む人にとって鎮守の神様は氏神様でもあり、心の拠り所でもあったわけです。  こうした産土鎮守神の多くは、各地方の「一の宮」の末社という位置づけになっています。一の宮とは、かつての諸国における最上位の宮と考えることができます。
 たとえば、関東の東京都、埼玉県、神奈川県の一部は武蔵の国と呼ばれていました。その一の宮が、埼玉県さいたま市の氷川神社で、祭神(主神)は素盞鳴之尊です。これを現代の行政区分で考えると、氷川神社は県庁であり、素盞鳴之尊は県知事ということになるでしょうか。そして、それぞれの町にある末社が区役所や出張所ということになります。
 実は、この言い方では不十分なのですが、神界と人間界を対比するのは、どうも座り心地が悪いような気がしてなりません。それは私たちを見守ってくれる神と、実際の行政官や知事とは、存在そのものが違うからでしょうか。
神性を発揮した人間が応現神となる
 それはさておき、先に触れたように大國主之命や菅原道真公(天神様)が神として祀られています。  自分自身と血縁があるわけでもなく、またその土地に縁があるわけでもありません。これまで述べてきたことと照らし合わせると、縦の関係にも、横の関係にもないことになります。
 しかし、人々がそうした神々を奉斎し、願いごとをするのは、そうした神々が応現神であるからなのです。
 応現神とは、現世で人間として存在したときに、自らのうちにある神性を大いに発揮し、死後神として祀られた存在です。
 人間は誰でも神の子ですが、誰もがその内に秘めている神性を大いに発揮できるわけではありません。その多くは神性をあまり発揮できずに、短い生涯を終えるのですが、国づくりや学問、あるいは武技や芸術などの分野で特異な才能を発揮した人間が死後、神として祀られるわけです。
 人々はそうした人間の中に神を見ます。つまり、その人間に内在していた神性を崇拝し、この神性を神の権化、あるいは聖なるものの化身として見るわけです。その人間を拝むのではなく、その先にある絶対者としての神(その一つの現れ)を拝んでいるといえるでしょう。つまり、その現れを応現神というのです。
 事実、そうした応現神への信仰の結果として、目を見張るような奇跡が現れ、数多くの功徳利生を得ているのは、皆さんもご存じのことでしょう。こうした信仰は決して迷信や低俗なものではなく、その神威が形となって現れるために、現代にまで継承されていると考えるべきです。
 以上のように、神についてのヒントを述べてきました。
 神とは祖先の向上した存在(縦の関係)であり、空間を司る存在(横の関係)でもあり、過去に神性を発揮した人間(応現神)でもあります。
 その根源となるのは生命の源であり、宇宙の始まりでもあり、明確な意志を持った絶対者でもあるのです。これを第一章で述べた“サムシング・グレート(何か偉大な存在)”に置き換えてみると、神のイメージがつかめるのではないでしょうか。
 信仰において、自らの宗教が正しく、他者の宗教が邪であるという議論は成り立ちません。邪霊を祀った怪しげな宗教は論外ですが、唯一無上の絶対者である神を崇拝するのは、キリスト教やイスラム教、仏教や神道においても同じことといえるのです。
 そして、イエスもマホメットも釈尊もまた前述のように考えれば応現神といえます。
 人々はいうまでもなく、そうした応現神そのものを信仰するだけではなく、その先に存在する絶対者である神を信仰しているのです。
 私がよく質問されることに、「平和教は一神教ですか、それとも多神教ですか」というものがあります。私は決まって「一神教的多神教です」と答えていますが、キリスト教圏やイスラム教圏で生まれ育った方は一様に怪訝な表情を浮かべます。
 その人たちにしてみれば、一神教と多神教とは相反する原理で、それが融合しているということは信じられないのでしょう。
 私たち平和教では、宇宙開闢、天地創造、万物造化の中心神をはじめ、御神銘のあがっている神々だけで三十六柱、その他、日本はもとより世界各国各地の国土守護、救世済民の諸神を奉斎しています。
 このことを言うと、一神教を信奉する方から「節操がない」あるいは「ご都合主義だ」とのご批判を受けることがありますが、これまで述べてきたように神とは唯一無上の絶対者だけでなく、それに連なる霊や応現神が存在しています。
 漠然としたイメージの神を信奉するのではなく、より実感できる神を信奉し、その先に存在する絶対者を崇敬する。
 平和教の理念とは、こういうことになるのです。
〈運生の公理〉の三元が運、不運を決定づける
 神についての言及はこれぐらいにしておきましょう。
 これからは、「開運を決定づけるものは何か?」について話を進めていきます。
 私たち平和教の開教祖である棚橋信元は、人間の運命に影響をおよぼすいろいろな因子を整理して、それを〈運生の公理〉と名づけました。
 運生とは“運を生ずる”という意味で、運勢を自らつくり出すことが可能であるという教えです。〈運生の公理〉については、これまで私が上梓した多くの書籍で述べていますが、読者の方々からは大きな反響を得ています。
 中には運命学の専門家からも貴重なご意見をいただき、「自分が専門とする運命学では、これまでどうしても説明しきれなかった部分があった。しかし、〈運生の公理〉を知ることによって、その疑問を解消することができた」と、おっしゃってくださいました。
 まずは、〈運生の公理〉の要点を紹介することにしましょう。

◎人の運命は「努力」と「時間」、そして「目に見えないさまざまな力」によって支配されている。
◎この三つを“三元の力”といい、人の運命は三元のベクトル(力の合わさった方向)へ動く。
(1)「努力」とは力(エネルギー)のことであり、精神力、体力、金力、物力などの総合発  揮をいう。
(2)「時間」とは努力の連続、すなわち力(エネルギー)の集積、累積を意味する。
(3)「目に見えないさまざまな力」とは、
心念の作用、言霊の作用、神霊、祖霊、生霊、死霊、数霊、天地自然の流れ、地相 家相、もろもろの動きなど
を指している。
◎この世の不運や幸運、あるいは強運などは、三元のいずれかに根本の原因がある。根本の原因を発見し、悪影響をとりのぞくことで、人の運勢は必ず好転する。

 以上が〈運生の公理〉の要点なのですが、読者の中には、「神道なのに、なぜ神霊の力を最初に持ってこないのか」と疑問に思われた方もいらっしゃるでしょう。後述する開運講座では〈運生の公理〉を詳しくお話ししていますが、決まって受講者から同じような質問が出ます。
 ここにあげた「目に見えないさまざまな力」の順序も、神占(神様におたずねして御返事を頂くこと)で神から示されたとおりになっており、そこには奥深い神意がちゃんと隠されているのです。
 また、〈運生の公理〉の最初に、「努力」と「時間」が重要な要因として出ています。
 精神力や能力、財力などの総合的な要素を、連続し、継続して発揮させるということは確かに苦しいことではあります。しかし、この二つの要因なしでの成功はあり得ません。
 一方で、不遇な状況から身を興して、自分自身の才覚や実力で成功を収めた人物は、こうした「努力」と「時間」にのみ目を向けがちではないでしょうか。いまさらロッキード事件やリクルート事件を持ち出すまでもないことですが、一代で伸し上がった政治家や政財界のトップが一朝にして被告人となり、社会から抹殺される様子を皆さんも目にしているはずです。
 最近ではホリエモンこと、ライブドアの元経営者だった堀江貴文被告が世間を騒がせましたが、彼もまた同じような人間のように思われてなりません。
 こうした人たちは、「努力」と「時間」だけを過信し、「目に見えないさまざまな力」の作用には関心を払っていなかったと推測されるのです。
 つまり、平和教の教えでは、〈運生の公理〉を知り、それを実践すれば、誰でも開運できる、あるいは不運や衰運を遠ざけることができると説いているわけです。〈運生の公理〉については、章を変えて詳しく解説することにして、本項では、
 「この世の不運や幸運、あるいは強運などは、三元のいずれかに根本の原因がある。根本の原因を発見し、悪影響をとりのぞくことで、人の運勢は必ず好転する」。
 この言葉だけをしっかりと胸に刻んでおいてください。
〈宿命〉を知ることも大切
 ここで読者の皆さんは、疑問に思われることでしょう。
「自分だって、努力はしている。なのに、運は向いてこないし、ちっとも幸せじゃない。財力にしたって金持ちの家に生まれていれば、最初から財力が与えられているじゃないか」
 これについては、〈宿命〉を理解してもらうしかありません。
 私たちは小さいころから、「人間は皆、法の下に平等である」と教えられてきました。しかし、いつの間にか「法の下に」が抜け落ちて、「人間は皆、平等である」との考えが流布されるようになってきました。これがいわゆる悪平等というものです。
 教育の現場ではとくにこの悪平等が進められ、落ちこぼれをなくすために、勉強ができる子供もできない子供も、同じように扱っています。
 そのため学力は下並びとなり、諸外国と比較すると児童・生徒・学生の学力低下は目をおおいたくなるような状況になっているといいます。こうした平等思想がひいては国力を低下させ、国際的な競争力を失うのは悲しむべきことなのです。
 悪平等の話はさておき、〈宿命〉に話を戻すことにしましょう。
 私たちの社会は、まったくの不平等です。金持ちもいれば、貧困の家もあります。社会的地位の高い親のもとに生まれてくる場合や、そうではない場合もあります。都会で生まれることも、ひなびた地方で生まれることもあるでしょう。そのほか、家族構成や人間関係においても、“生まれながらにして運命は決まっている”部分も確かにあるのです。
 これが〈宿命〉で、こればかりはいくら本人が努力しても変えることはできません。では、〈宿命〉とは何かについて考えてみることにしましょう。
 第一は「時間」です。つまり、「いつ生まれたか」で、私は昭和十三年生まれですが、「そろそろ体力が衰えてきたから、昭和五十年ぐらいの生まれになりたい」と願っても、これは無理なことです。あるいは、「江戸時代に生まれたかった」というのも叶うことではありません。
 第二は「場所」です。つまり、生まれた土地ということで、人種や民族といってもいいでしょう。私であれば、もちろん日本人ということで、いくら願ったとしても人種的にはアメリカ人やフランス人にはなれません。
 第三は「家」です。生まれてしまった以上、今から親や兄弟、親戚を選ぶことはできません。「気に入らない親だから取り換えてくれ」と言ってもそれは無理な注文なのです。兄弟姉妹の順もここに入ります。
 第四は「性」です。「男だったら良かったのに」「女としての人生を歩みたかった」など、最近では性同一性障害の方の声も大きくなってきましたが、もともと〈宿命〉においては「性」を選ぶことはできません。
 このように、いくら努力しても、いくら目に見えない力にすがっても、変えようのない〈宿命〉は厳然と存在するわけです。
〈宿命〉とは宿題のこと
「それならば、開運なんて意味がない。自分は今の状況を打ち破りたいために、開運したいと思っているのに、宿命があるのならどうしようもないではないか」と思われる方もいらっしゃるでしょう。
 しかし、ここに〈宿命〉の深遠さがあるのです。
 あなたは生まれ変わりというものを信じているでしょうか。いわゆる前世ということになります。私は生まれ変わりについてたずねられた時、つぎのように答えています。
「私たちは繰り返し生まれ変わります。今の人生は、その一つに過ぎません。現世は学校のようなもので、最初は保育園や幼稚園、つぎに小学校、中学校、高校、大学と進むのです。この流れの中でひどく失敗すると、つぎの段階に進めず、またやり直すことになります。人間には生まれた時に神から使命が与えられており、生まれ変わりを繰り返すことで、その使命を達成するのです。ある程度、それが達成されれば生まれ変わることなく、死後の世界(霊幽界)で向上の道を歩むのです」
 この短い文章ではとても納得されないでしょう。しかし、これを得心いただけるように説明しようとすれば、数冊の本でも足りないぐらいの膨大な分量となってしまいます。
 ここでは、生まれ変わりがあることで、一見、ひどく不平等に感じることが、その実そうではないことを考えていただきたいのです。
 たとえばBさんという人物がいます。このBさんが、ある時代の、ある場所で一生を送ったとします。やがてBさんは臨終の時を迎え、霊幽界へと還っていきます。霊幽界ではBさんの所業をつぶさに観察している存在がいて、その人生を評価します。
 その時、「よく頑張った。合格だよ」というのか、それとも「何をやっていたんだ、不合格」というのか、それこそ人それぞれでしょう。ただし、公正にその所業を判断してくれます。
 そして、合格していれば、「じゃあ、つぎの段階に進もうか」となりますし、不合格であれば、「もう一度、小学校からやり直し」ということになるのです。
 この場合の不合格とは、神から与えられた使命を果たさなかったということになります。たとえばBさんは、その前世で人を殺していたとしましょう。その霊が生まれ変わってBさんとなり、その人生でも人を殺してしまったら、使命を果たさなかったことになるのです。人殺しだけでなく、あらゆる犯罪や、犯罪にまで至らなくとも人を傷つけたり、おとしめたりすることも神の評価では“罪”となります。  そこで、Bさんを観察していた存在が言います。
「じゃあ、今度はどんな〈宿命〉にしようか」
 つまり、〈宿命〉とは宿題なのです。
 私たちは生まれる前に、自分の親を選ぶといわれています。しかし、勝手に選べるわけではありません。繰り返し経験してきた人生をどのように送ったかによって、選べる範囲が決められていると考えてよいでしょう。
 前世でやさしい親がいたのに、それを傷つけてしまったり邪険にあつかった人は、粗暴で陰険な親を選ばされることもあります。金持ちの家に生まれて、金の力で弱者を虐げた人は貧困な家庭に生まれ変わらなければならないこともあるのです。
 このようにして、生まれ変わる人は〈宿命〉を承知した上で、現世に生まれてくるのです。その使命を胸に秘めて現世に生まれるのですが、人はその使命を忘れてしまいます。
 ともかく、こうした生まれ変わりについて虚心に目を向けてみれば、親子関係もこれまでとはまったく異なった観点から見ることができるでしょう。
 子供は反抗期になると、「俺は産んでくれと言った覚えはない」などと、親に噛みつくことがありますが、実際のところは、自らその親を選んで生まれてきているわけです。このような噛みつきはまったく的外れではあるのですが、実は、そうした前世のさまざまなことを忘れることも、また必要なことなのです。
忘却の海を渡って人は生まれてくる
 人間は何度も生まれ変わると聞くと、「自分の前世は何者だったのだろうか」と興味を覚えるものです。  こうした“前世調べ”を売り物にしている霊能者もありますが、私は感心できません。
 というのも、前世とはすでに終わった世界のことです。過去のことにこだわると、今の人生を前向きに生きることができなくなるのです。そのため神は、忘却の海を渡ってからこの世に生まれる素晴らしいシステムを授けてくれました。
 もし、前世のことを明確に覚えていたら、産んでくれた親のことを親とも思えず、兄弟に対しても他人のように接することでしょう。  それよりも自分自身が生まれ変わった存在であれば、親や兄弟もまたしかりです。もし生まれ変わった先で、その親がかつて自分が殺した相手だったとしたら、どう思うでしょうか。また、その逆になっていることも考えられます。
 仲の良い兄弟で、それぞれ前世を調べてみたら、前世では仇敵だったということもありえます。そうしたことがわかってしまえば、とても平穏な生活が送れなくなってしまいます。前世はこうだった、そのまた前世はと、遡ることができたにしても、現世の人生にとってプラスにはなりません。かえって、人生を過ごしにくいものにさせてしまうのです。
 あなたがこれから結婚して家庭を持ったとします。また、すでに家庭を、家族を持っている方もいらっしゃるでしょう。
 結婚して子供ができました。その子供は、あなたと、あなたが生涯の伴侶と決めた相手との子供でなければなりません。ところが、遺伝子的には二人の因子を備え持った赤ちゃんが、“魂”は縁もゆかりもない他人であったのなら、あなたはその赤ちゃんを育てる気になるでしょうか。
 生まれ変わりを考える時には、いつもこうしたジレンマに襲われます。
 ただ、神はそうしたところにも深遠なる叡知をはたらかせています。善きにつけ悪しきにつけ、運命を共にする家族は、前世やそのまた前世で、深い縁を結んでいます。そうした人々の魂が、その縁に導かれて生まれ変わってくると考えることができれば、さほど違和感は感じないと思われますが、いかがでしょう。
「お前は前世でずいぶん非道な行為をしたから、その償いのために不慮の死を迎えることになっている」
 などと、怪しげな霊能者に宣告されたら、それこそ災難から逃れるためにお金を積んで、身ぐるみ剥がされてしまうでしょう。そうでなくとも、安心して日常生活を営むことができなくなってしまいます。
 このようなことをすべて忘れて生まれてくるということは、たいへんに有り難い神の配剤ともいえるのです。
 ただ、前世にどのようなことがあろうとも、誰もが神と約束して現世に生まれてきているわけです。そして、その使命を果たすべく、努力を怠ってはなりません。そのため、私たちは常にこの生まれ変わりという仕組みに目を向け、理解を深めていく必要があると思うのです。
 また、そのような努力が私たちの人間としての完成に至る道であり、運を司る存在が私たちに期待していることでもあります。忘却の海を渡ることの中には、このような意味もあると私は考えています。
 ここまで、〈宿命〉について話を進めてきました。
 その結論として、あなたという存在が、決して偶然に生まれたのではなく、ある種の必然として生まれたことが、おわかりいただけたと思います。生まれ変わりが神の意志であり、あなたの選択であるのならば、その生まれた家や土地、国もまた神の意志であり、あなたの選択でもあるのです。
人間は環境の奴隷ではない
 しかし、ここで疑問が生じてきます。
「自分が、神の子であることはわかった。宿命も受け入れることにしよう。しかし、なぜ世の中は不公平なのか。なぜ、自分には不運がつきまとうのか」と。
 人生を歩むためには、宿命を受け入れることが必要です。自分の宿命を呪い、「こんな家に生まれなかったら良かったのに」「こんな親は殺してしまいたい」「男(あるいは女)として生まれてきたかった」などと叫んでも、その宿命を変えることはできません。
 宿命を知り、それを甘受したうえで、さらに“高み”を目指すことが、すなわち開運なのです。
 私たちを取り巻く社会環境は、複雑にして怪奇なものです。最小の社会といえるのが家庭で、夫婦関係や親子関係が複雑に絡まり合うことがあります。長じて学校に行けば学校という社会があり、就職すれば一般社会があなたを待ち受けています。そこでの人間関係や社会制度、法律、習慣など、人間は常に環境の波に翻弄されているというのが、実情ではないでしょうか。
 しかし、人間はまた環境の奴隷ではありません。
 自分自身の人生を環境による影響のみで語ることは、人間に内在している神性や霊性、精神力(心の力)を否定することであり、そうした消極的、唯物的考えでは幸福な人生を送ることは不可能です。
 ここで今一度、考えてみてください。私たちはみな、神の子です。そして「人間は自らの人生を決定する権利と才能、自由を持っている」のです。
 人間誰しもすぐれた英知と先見により、前途に光明を認めて積極的、楽観的に心をはたらかせたなら、誰もが健康に恵まれ、平和で豊かな生活や人生を送れるのです。それこそが開運の道であり、それを目指すことが人生の使命でもあるわけなのです。
 つまり、どれだけ過酷な宿命であっても、努力次第でそれを良い方向に変更することができます。それまで、嫌でしょうがなかったことが、心の持ち方でそれを受け入れ、かえってそれを楽しむことができるようになる。それこそが、人生にとって最も必要なことかも知れません。
体験談 (3) 天候に恵まれ、安全運航できるようになった
 東京都 清澤太計也(パイロット)
 私が、平和教にご縁をいただいてから顕著になったことは、悪天候に遭わなくなったことですね。
 教主から「天気のほうはどうですか?」と聞かれて、そういえば、それまでは結構、天候気象の悪いところに行くようなことがありましたが、ご縁をいただいてからはそういうことがなくなりました。
 私が飛ぶ時は、不思議にも穏やかな天気になるんですね。
 数年前、アメリカで記録的な大寒波がありました。その寒波が来る前に、私はニューヨークに飛んだんです。天気図を見ていると、ちょうど私たちがニューヨークに着く頃に前線が通過するという情報が入りました。
「これはまいったな」と思いましたが、とにかく神様にお願いしようと。皆の前ではまずいので、トイレに入って九字を打ちました。九字というのは「臨兵闘者皆陳烈在前」の九個の文字のことで、災いを除いたり、勝利を得るための呪法のようなものです。
 平和教にご縁をいただいて、私も九字法を習ったわけですが、何か困ったことがあったら必ず九字を打つようにしていました。ただし、教えてもらった九字法は、「臨……」といった難しい文字とは関係なく、容易にできるものです。
 ニューヨークの上空に来てみると、夜が明けて陽が昇っています。その前に無線で天気の情報をもらったんですが、すごく天気がいいと言います。
 運行管理担当に「天気は、どうなったの?」と聞くと、「わからないけど、前線が南下してしまった」と言うんですね。「南下したのは、何か理由があるんだろう?」と聞いても、「いや、わからない」と。
 私が「俺が来たから、南下したんだよ」と言うとポカンとしていました。これは大御神様のご守護をいただいたんだと思いました。
 その時は、ニューヨークに三泊して次の便に乗る予定になっていたんです。
 そのうち、二日はすごく天気が良かったんですが、三日目はものすごい寒波がやってきました。ちょっと買い物に行こうと、ホテルを出て五番街に向かったんですが、分厚いジャンパーを着ていても刺すように寒いんです。眼鏡をかけているところも、寒さで痛くなってくるほどで、買い物をあきらめてホテルに戻りました。
 十二年ぶりの大寒波ということで、半端な寒さじゃありません。
 私たちはその翌日に飛び立ちましたが、その直後に大寒波の前線がニューヨークに押し寄せてきて、それから二、三日は空港の機能がマヒしてしまったといいます。間一髪のタイミングで大寒波から逃れることができたんですが、後で現地に残ったスタッフに話を聞くと、しばらくはホテルに缶詰め状態になったということです。
 そんなこともあって、神様にすごいご守護をいただいているんだと感謝しています。
 私はニューヨークに飛ぶことが多いんですが、冬だと往路は十二時間ぐらい、復路は向かい風の影響で十五時間ほどかかってしまいます。長時間にわたるフライトですので、搭乗する時には、人の見えないところでいつも黙って九字を打ってから、乗るようにしています。
 操縦席に座ってからも、操縦桿に手を添えて平和教の題目を唱えて、「運行中よろしくお願いします」という具合にやっているんです。
 それに地球の裏側まで行くわけですから、成田を出る際には「日本の神様、アラスカの神様、カナダの神様、アメリカの神様、上空を通過させていただきますので、よろしくお願いします」ということを朝出かける前に祝詞の中にいれてお願いしています。
 パイロットにとって搭乗するということは、いわば戦場に向かうようなものです。ですから、家を出る時には家内に頼んで火打ち石で切火をしてもらっています。「安全に飛行できますように」とお願いするんです。
 平和教にご縁をいただいてからは、飛行機の故障もまずありませんし、悪天候に飛ぶこともなくなりました。いつもスムーズに運行できるようになり、非常にありがたいことだと思っています。
 それに、ある程度キャリアを積んでくると、新人パイロットの試験に立ち合うことになるんですね。私も航空局の指名査察運航士という肩書きをいただいて、航空局の審査官の代わりにパイロットの適性などをチェックしたりもします。
 実際のところ、筆記や面接なんかでは、本当の適性はわからないものです。天気の悪い時に飛ばしたり、さまざまな状況のもとで試験してみないことには、パイロットとしての適性があるかどうかなんていうのは、わかりません。
 試験というのは、ある程度決められたことをやって、それをクリアすればいいということなんです。
 今、国内線を飛んでいるボーイングですと、五百六十九名のお客さんを乗せます。もし、事故があれば、一瞬で五百六十九名のお客さんと乗員の生命が失われてしまう。ですから、「パイロットとして適性のある人間かどうか」を見極めるのはとても重要なことなんです。
 それを見抜く目を養わなければならないんですが、どうしても見えない部分があります。そこで、「本当にこの人が危険な人でしたら、悪いところを見せてください。本当にこの人が安全な飛行運転をする人でしたら、そのように見せてください」と、必ず試験の前に神様にお願いしています。
 すると、たいていそうしたことを見せていただけるんです。私は、悪いところを見つけた人に「あなたはここが悪いから直しなさい。ここはダメですよ」と自信をもって言えるわけです。
 何よりも安全が求められる職業ですから、こうしたことはとても重要です。自分のフライトのことも大切ですが、後進のパイロットのためにも、そしてお客さんのためにも神様に助けていただいています。
 ハイテクの塊であるジャンボジェットを操縦しているのに、神様の力にすがるなんて、おかしなことと思われるかも知れませんが、私の経験上、目に見えない不思議な力は存在します。それがいい影響を与えるものなら問題はないのですが、悪い影響を与えるものならば、守る方法を考えなければなりません。
 平和教の教えは人生の指針であると同時に、そうした悪いものを退ける護身法でもあります。私の家では私だけでなく、家内や四人の子供たちも平和教の神様を信奉しているんですよ。
体験談 (4) 霊障を祓い、大御神様にご降臨いただいて検査を成功させた
 茨城県 島倉祥郎(医師)
 私は十代の頃から精神世界に興味がありまして、密教系の仏教やクンダリニーヨーガ、それに自己流で仙道の行法などをやってきました。
 ところが、何かが満たされない。そんな時に、平和教とご縁ができまして、すっかりのめり込むようになったという次第です。平和教の講習を受けてから一カ月後には、それまで他人任せだった先祖供養を自分の手でするようになり、こうしたことは家族の協力が不可欠ですので、家内にも講習を受けてもらいました。
 御神霊と自分がつながれば、いろんな修法によって神様のお力を現してくれること、これが平和教の素晴らしいところです。
 しかし、神伝治病法については、私なりに思うところがあります。
 病気の原因は心念の作用に始まる目に見えない力や本人の不注意、過労などによるものと考えられるのですが、実はその奥に仏教流でいえばカルマ(業・前世からの因縁)というべき根本原因があると思うんです。
 それが霊障や方災、過労などを引き寄せて、当人が病気で苦しむことになる。これは病気に限ったことではないんですが、そうしたカルマというものは確実にあると考えています。
 ただ、病気になったり、不運に苦しむことが、カルマの解消になる場合もあると思います。つまり、病気になるという宿命を背負ってきている人は、そうなることでカルマを解消するという考え方ですね。
 ですから、平和教の神伝治病法は、神様に病気の根本原因になっている罪のようなものを許してもらい、大難を小難に、小難を無難にしていただく法であると思うんです。
 しかし、神様に許してもらうわけですから、治病を受ける本人が悔い改めたり、必死になって神様にお願いするというような心念の受け入れ態勢がなければなりません。そうしたものを持たずに、ただ治してもらったというのでは、カルマの解消にならないと思うんですよ。
 もっとも、受け入れ態勢が不充分でも、神様が「あいつが祈願しているのだから聞いてやろう。許してやろう」というのはあると思うんですね。つまり、当人に代わって祈願する人が、神様と太いパイプでつながっていると、神様は多少の無理を聞いてくださる。そういうこともあるわけです。
 しかし、こうした場合は刑の執行を猶予されたようなもので、当人が本心から悔い改めて、必死になって神様にお願いしないと、もと通りになってしまうようなこともあると私は考えています。
 私は西洋医学の医師ですが、どうして平和教の神伝治病法を実践しているのかといえば、これだけ進んだ医学なのに、治らない病気がいかに多いかということです。
 西洋医学では「これが原因で、こうした症状が現れて、病名はこうなる。そんな病気にはこんな薬を処方して、あるいは外科手術で」と、合理的、かつ科学的に対処するのですが、実際にはとても医学や科学では解明できないケースを見ることになるんです。
 そうした例を二、三ご紹介しましょう。
 高血圧治療中の五十代の患者さんなんですが、ある日、「先生。言葉が思うように出なくなりました」と、外来にいらっしゃいました。普通は、脳梗塞などの脳血管障害を疑うケースです。
 そこで、脳神経を中心にした神経学的診察をしたんですが、異常所見がないわけです。
 通常は、「大丈夫だと思いますが、CT検査という脳のコンピュータ断層撮影でもやっておきましょう」というようなことを言って、経過を見ることになります。しかし、このケースは言霊が悪さをしているなとピーンときました。
 私が「あなたは、何か変なことをいいませんでしたか? たとえば皇后様がどうだとかこうだとか」と思いつくままに言うと、患者さんの顔色が変わります。
 その頃、皇后様の健康がすぐれなくて、テレビのワイドショーでもさかんに放送されていました。その患者さんはテレビを視ている時に、つい「おかわいそうに。代われるものなら、私が代わってあげたい」とつぶやいてしまったと言います。
 まさしく言霊の悪さです。早速、神伝治病法を用いたのは言うまでもありませんが、その人は家に帰るまでに治ってしまったそうです。
 こうした場合、西洋医学では心身症ということになりますが、その原因に気づかなければ治ることはありません。不用意に吐いた言葉の恐ろしさを実感させられた事例です。
 しかし、こうしたこともすべてが神様頼みというわけではなく、脳血管障害ではないと正確に診断する医師としての作業がなければ導き出すことはできません。神様はよほどのことがない限り、直接、私に診断を教えてくれないんです。
 すぐに結果がわかってしまえば、医師としての修練や勉強などの人間的な努力をしなくなりますからね。神様は当然のことながら、そうしたことを望んでおられませんから。
 次に六十代の男性のケースをお話ししましょう。
 私は消化器疾患を専門としていて、俗にいう胃カメラなんかも扱います。自分ではうまいほうだと自負していますが、それでも辛い思いをする患者さんはいらっしゃるわけです。そうした検査で異常に痛がったり、スムーズにいかない方は、大抵強いマイナスエネルギーというか、霊障をお持ちの方が少なくありません。
 検査をする側が、そうしたマイナスエネルギーに影響されて、うまくいかなくなってしまうんですね。
 その六十代の患者さんは、胃内視鏡検査で、胃壁内で線腫という病気が発見されました。いわゆる腫瘍なんですが、良性と悪性の中間のようなものです。通常は開腹手術をせずに、内視鏡で病変を切除するんですが、その方の線腫は胃粘膜の襞と襞の間に挟まれていたんです。内視鏡では、かなり難しい施術になりますね。
 この方も検査の時には大騒ぎで、顔つきも悪く、強い霊障を感じました。そこで、「霊障を取ればうまくいくのでは?」と思ったわけです。
 早速、居室に戻って自分なりに神占をしました。すると、ご先祖の問題もあったようですが、病死の死霊の障りと出るわけです。神様に「どうしましょうか?」と聞くと、「やっていい」という反応がありましたので、ご降臨いただく神様を決めて、邪霊祓いに準じて修法をし九字を切りました。
 いざ、施術する段になると、神様は早くもお力を現していただき、襞の間に隠れていた病変が剥き出しになっています。短い時間で簡単に切除することができました。
 このように、霊障は医学的治療も邪魔しますが、ご神威をいただければそうした霊障を退けることができるんですね。さらに、暗かった患者さんの顔も明るくなったというオマケもありました。
 最後に、五十代の男性の患者さんのことを話しておきましょうか。その方は三日ごとに七転八倒するほどの腹痛が出現すると訴えます。  血液検査や腹部超音波検査、胃十二指腸内視鏡検査では異常所見に乏しく、胆道結石が疑われました。そこで、内視鏡的逆行性膵胆管造影法という検査を施行したんですが、どうにもうまくいきません。
 この検査は内視鏡を口から入れて、胆汁の出てくる穴に管を差し込み、造影剤を注入するもので、肝臓から作られる胆汁の通り道である胆管の病変を診断するという検査です。
 私が内視鏡を入れましたが、十二指腸までも届きません。一時間ほど頑張ってみましたが、ついに成功せず、失敗してしまったんです。  この患者さんは最初から霊障が強烈だなと感じた方で、検査途中に大己貴之命、少名彦之命、素盞鳴之尊の大神様たちにご降臨願って施行したのですがダメでした。検査がうまくいかないと、患者さんを苦しめるだけで、私がまるで地獄の鬼になったような気分になります。これは精神的に辛いですよ。
 そこで、検査を中断して二日後に再検査することにしたんですが、私の力では及ばないと判断しました。
 平和教の大塚教会(現東京教会)に電話をして、依田先生(当時の大塚教会長)にお伺いしたところ、その患者さんは交通事故死の霊障をいっぱい抱えているとのことです。先生は「祓っておきます」とおっしゃいました。
 私が病室に戻って、その患者さんに交通事故の有無を聞くと、先日、追突事故を起こされたと答えましたので、やっぱりそうだったのかと裏が取れたというわけです。
 その二日後、霊障を祓っていただいて、さらに大御神様たちにご降臨いただいて九字を切りました。そうして神がかった状態で検査をしたところ、十分そこそこで終了することができたんです。前回は一時間かかってもできなかったのが、ウソのようです。
 検査の結果、腹痛の原因は胆嚢管に小さな石が詰まっていたことがわかりました。それを手術で取り除いたんですが、この検査時間の大きな差は、いったいどこからやってくるんでしょうね。
 いかに我々が霊障という足を引っ張る存在の影響を受けているかを痛感させられました。と同時に、神様の素晴らしさを実感させていただいたという次第です。
体験談 (5) 人を雇う時にはご神示を仰ぐ
 愛知県 雨宮隆史(仮名/住宅会社経営)
 平和教とご縁を結ぶ前は仕事がなくって、この先、どうやって食べていこうかと考えた時期もありましたが、ご縁を結んでからは、お陰様で業績がうなぎ登りになっています。対前年比二五〇パーセントの伸び率の年もあり、年間一千棟、全国展開という夢も実現に近づいており、この不況の中で新興の住宅会社としては異例の伸び率になっています。どうしてこんなにうまくいくんだろうと思うほど、超順調ですね。
 仕事が順調になれば、人手が足りなくなってきます。そこで、人を雇うことの難しさと、ご神示についてお話しすることにしましょう。
 教主から、常々「人を雇う時は神様におたずねして、ダメだと言われたら絶対に雇ってはいけない」と言われていました。
 しかし、仕事が忙しくなると、本当に人手が足りなくなって、喉から手が出るほど人材がほしくなります。そこで、ある会社から一級建築士を引き抜くことにしました。神様におたずねした時に、ダメだと言われた人でしたが、いろいろと理由をつけて、神様にようやくOKをもらったんです。
 ところが、いざ雇ってみるとトラブルの連続でした。
 もし、あの時に雇っていなかったら、忙しすぎて辛い状況のままだったでしょうが、今となってみれば、「この人がいなかったら、こんな問題も、あんな問題も起こらなかっただろうに」と、悔やんでいるんです。
 その人は経験豊富な一級建築士ですので、過去の成功体験をもとに仕事をします。ところが、今は時代がどんどん変わっているんですね。
 日本では人件費が高くて、製造業は東南アジアに出て行く。その結果、価格はメチャメチャに下がって、利益が出なくなってしまいます。つまりは国内産業の空洞化ということになってしまうんですね。
 商売をやっておられる方は、それに対応できるような知識と方策を考えておかないと、仕事というものは苦しくなってしまいます。
 ところが、なまじ過去に成功した経験を持っていると、それが足かせになってしまうことが少なくありません。今の状況に合わなくても経験則で、「ああしよう。こうしよう」ということになるわけです。
 そうなるといろいろな不都合が出てきて、いい面よりも悪い面が目立つようになります。こうしたことは、頑固で成功体験の多い人ほど顕著ですね。
 バブルの頃に大儲けした業種の方は、多分、その頃のおいしい思い出が忘れることができなくて、大変な状況になっていると思うんですよ。今になって思えば、なんで神様の言うことを素直に聞けなかったのかと後悔しきりです。
 この人とは反対に、神様にOKをいただいて雇った人がいます。
 工務の現場監督見習いにしようと思っていたんですが、どうにも内気で頼りない感じがします。神様からOKをいただきましたが、大丈夫なんだろうかと随分、悩みました。
 そのうち忙しくなり、この人を補佐として使わなくてはならない状況になったんです。実際のところ、その人のことを忘れていたんですが、周りの人に「あの人どうですか?」と聞くと、意外に「いやあ、あの人はやるよ」という言葉が返ってきました。
 私は腑に落ちなかったんですが、それから注意してその人を観察するようになりました。そうして接していると、確かに私に対してまともな返事もできない人ではあるんですが、具体的に一つひとつ聞くと、きちんと答えてくれます。
 私は「ああ、そうか。自分に与えられた仕事に関しては、ちゃんとやろうという意識を持っているんだな」と得心しました。
 その後、以前からその人のことを知っていた出入りの業者の方に話を聞くことができたんです。その方が言うには、以前の会社では使い物にならない人間だったそうです。
 それが現在では、当社にとって本当に、なくてはならないほどの人材になっているわけです。会社の業績が伸びており、それに自分自身が貢献しているという自覚もあるんでしょう。人間的に入社時より大きく成長したんだと思っています。
 先入観というか、外見というか、人間はどうしても過去の実績やキャリア、さらには容貌で他人を判断しがちですが、神様はしっかりとその本質を見抜いておられます。当社にとって必要な人材は誰かということを経営者以上にご存じなんですね。
 それにもう一つ、不思議な体験があります。
 数年前に娘が、短期留学でフロリダに行く計画を立てていました。娘は大変気丈な性格で、少々のことでは音を上げないんですが、その娘が頭が痛いと言います。慌てて病院に連れて行ったら、蓄膿だと診断され、手術をすることになりました。
 結局、そのために留学は取り止めになったんですが、娘は「何でこんなことになるの」と非常に怒るんですね。家内が「ここで旅行なんかに行くと、きっと悪いことが起きるのよ」と言っていると、案の定、アメリカでテロが発生しました。
 もし、行っていれば、テロに巻き込まれた可能性が高いんです。
 こんな時期に手術なんて、何か理由があるのだろうと思っていましたが、やはり神様が「行くな」というサインを送ってくれたんですね。
 娘は「こんな痛い思いをさせてもらわなくても、もっと違う方法で止めてくれたら良かったのに」と恨めしそうでしたが、娘にはそれぐらいのことをしないと、きっとアメリカに行っていたに違いありません。頑固で親の言うことも聞きませんからね。
 ともかく、仕事だけでなく、家族のことも神様に見守っていただき、心から感謝しています。
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